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リベラルな日本を保守するという意味不明:『枝野ビジョン』を読むー1


 今月行われる都議選の後、そしてごり押し東京オリンピック・パラリンピックの後を受けて行われる衆議院議員選。
 自公ゴリゴリ政権の増長を、果たして離合集散ゲームに終止符を打って形成されたかどうか今はまだ評価不明の野党第1党立憲民主党がどこまで抑止することができるか。
 保守・革新という構図での選挙が幾度となく繰り返される国政選。
 論点が変わりようがない悲喜劇選挙で、立民が自ら変わったと思わせうる公約を掲げ、それを分かりやすく訴え、有権者に刺さる選挙キャンペーンを展開できるか。

 その期待の一端を先日発行された立民代表枝野氏自ら著わした『枝野ビジョン 支え合う日本 (文春新書)』(2021/5/20刊)から読み取ることができるか。
 あまり期待もせず斜め読みした。
 今回から、その内容を紹介しつつ思うところをシリーズで追ってみたい。

 丁度というか、偶然というかその直後『日本の分断 私たちの民主主義の未来について (文春新書)』(三浦瑠麗氏著:(2021/2/20刊)を読んだ。
 枝野氏の書の発売3ヶ月前の出版。枝野氏がこれを読んだ上で、自著が発売されたことはないと思うが、もし先に読んでいたら、どう感じ、もし自著発行前に何かしら内容を反映させることができたなら、どんな事を書いたか。
 非常に興味深いことになったと思うが。
 三浦氏の書は、価値観調査に基づく日本の保守・リベラルに関する日本人へのアンケート調査結果に基づく分析を行った書。
 その内容が、枝野ビジョンと擦り合わせるうえで非常に面白くかつ興味深かった。
 というよりも重要な示唆に富んでいたのだ。
 その紹介もさしはさみながら本シリーズを進めたいと思う。

 第1回目の今回は、<第1章 「リベラル」な日本を「保守」する>を取り上げます。
 この章で、枝野氏は、自身そして立憲民主党を「保守」本流、あるいは「リベラル」な「保守」と称する理由・背景を語ります。
 本章の、各節を順に見ていくことにします。

第1章 「リベラル」な日本を「保守」する

 自民党は本当に「保守」と呼べるのか。
「保守」の本質をしっかりと認識し、分析した上で、現在の自民党の歪んだ「保守」を脱却し、真の「保守」の姿を取り戻すべきではないか。
 それは、「リベラル」と称される立憲民主党の政治姿勢と、実は極めて近い。

 これが枝野氏の基本認識として、本章を始めます。

日本における「保守」とは

「保守」主義とは歴史や伝統などを大事にして、急激な改革を否定する精神や運動。
「保守」思想の土台になっているのは、「人間は誰もが不完全なものだ」という謙虚な人間観
 あり得ない「理想の社会」を目指すのではなく、先人たちが試行錯誤しながら積み重ねてきた歴史を大事に生かしながら、そこから得てきた経験値を踏まえ、世の中を少しずつ良くしていく。
 過去にも「理想の社会」はなかったのだから、安易に「昔は良かった」などと懐古主義に走ることもない。
 これが「保守」の考え方。
 「理性によって理想の社会像を作り上げ、その実現のために邁進する」という革新的な考え方は、本来の「保守」から見れば、「人間の本性に反している」ことになる。
 理想の社会を絶対視して社会の欠陥を許容せず、急激な革新や進歩を目指す考え方は、「保守」の立場からは否定される。
 少子高齢化に伴う人口急減や、地球温暖化に代表される近代化の限界によって、社会は急激に大きく変わろうとしている。こういう時代に際し、さまざまな施策を通じて国民の不安を和らげ、急激な変化に対するソフトランディングを図るのが、本来の「保守」のあるべき姿。

 いわゆる「リベラル」が一般的に批判される要因である「理想の社会」を理性によって計画的に作り上げるという考え方。
 これを端から立民の代表が否定し、自分たちはそうではない、と言うことから始まります。
 理性でまだ見ぬ社会を描くことが「革新」なのか、それ自体怪しいのですが、理想社会を否定されるのも「?」と感じてしまうのは私だけでしょうか。
 理想社会は、夢想社会ではなく、経験やイメージや議論を通じて、実現可能なものとして、手段・手法、プロセスもスケジュールも含んで描くことができれば、それは「改善」であり「改革」であり、総合すれば「革新」にもなりうる。
 そう考えることができると思うのですが。
 要するに、実現可能と思う、感じる内容のビジョンと長期計画を提示できるかできないか、でしょう。
 
 また「急激」な変化とは、どの程度の変化で、どの程度の期間に起こった変化を言うのでしょうか。
 また、私たちは、政治課題について考えるとき、近代がどうとか、歴史がどうとかをどこまで現実的に考えるでしょうか。
 また歴史や伝統を政治を考える上で、どこまで考えるか、意識するかも、極めて曖昧なことです。
 また「保守」が「人間は誰もが不完全なものだ」という謙虚な人間観をベースにするもの、と言われたところで、果たして保守を名乗る人々のどれほどの人が、そう認識していることか。
 
 冒頭からの「保守」論議は、強制的に仕掛けられ、どうも空回りしそうな感じ・感覚を抱かせられることから始まりました。


日本における寛容と多様性

 歴史や伝統が「保守」の基軸ということで、例示されたのが、次のような日本社会、日本人の文化的特徴でしょうか。
・八百万の多神教文明
・自分とは異なる価値を認め、多様性を認め、寛容が生み出した日本文化とその社会
・水田稲作を軸とした農耕社会の基盤としての村落共同体における「支え合い」「助け合い」の考え方が近代化の中で引き継がれてきた

 これも、個々の見方、個々の切り取り方の違いで、賛否両論、賛否併用可能なものとなるでしょう。
 そして、それらは、すべてが美点・長所で埋め尽くされているわけではなく、否定的に評価される部分、問題となった歴史的事実も含むものでしょう。
 すなわち、絶対的一元的評価に集約されるものではないでしょう。
 寛容が無条件・無尽蔵のものではなかったでしょうし、極めて小さい単位社会内もしくは限定された地域にとどまる場合のみ共同体が機能したという制約・条件があったはずです。



「保守」が進めた「リベラル」な政策

 本来の「保守」の考え方は、現在の日本における「リベラル」と、たいへん高い親和性を持っている。
 多様性を重視し、強いリーダーシップより合意形成と支え合いを大切にすることは、識者やメディアなどから「リベラル」と位置づけられている立憲民主党の政治理念と限りなく共通する
 1500年にわたる日本の歴史と伝統を踏まえると、現在の日本政治において特定の政党や政治家に、「保守」「リベラル」のレッテルを貼り、対立概念として受け止めてきた風潮は、必ずしも実態を踏まえたものではない。
(略)
 戦後「保守」本流が作り上げ成し遂げた、格差拡大の防止と格差是正によって「一億総中流」の実現、先進国への仲間入りを高く評価している。
(略)
 自民党の内側に、社会保障や格差拡大防止といった国家の役割を重視する「リベラル」な視点が存在していなければ、「リベラル」な野党の主張を、これほどまでに採り入れる必然性はなかっただろう。
 日本で、「保守」対「リベラル」という政治の対立軸が生まれなかったのは、我が国の歴史と伝統の中で育まれた「リベラル」な姿勢こそ、「保守」すべきものであるという日本人の感性を、自民党が体現してきたことが背景にある。

 
 この発言では、戦後の政治において与野党の別の意味・意義はさほどなかったと言っていることになります。
 言うならば、昭和の古き良き政治の時代を回顧し、懐古するわけです。
 そして、そのぬるま湯、自己満足の時代に、「リベラル」は身も心も委ねていたことになったのですが、そういう自覚はないようです。


小泉改革以降と第二次安倍政権が壊した「保守」

 民主政の下における立憲主義は、選挙などを通じて、民主的に選ばれた代表者であっても、権力を好き勝手に行使してはならず、経験知の集約である憲法の制約に服さなければならないという考え方。
 また、民主主義と多数決はイコールではなく、「みんなで話し合い、みんなが納得できる結論を導き出す」こと。
多数決は、みんなが納得できる結論を導くための、一つの手段にすぎない。
(略)
 しかし、現在の自民党は、一億総中流社会を実現させた自民党とは似て非なるものとなり、「保守」の本質や、1500年にわたる日本の歴史や伝統を踏まえると、「保守」とは対極にあると言わざるをえない
(略)
 2001年発足の小泉政権以降、自民党は、支え合いや助け合い、政府による社会的公正の確保」よりも「自己責任」を強調し、競争重視の新自由主義的な経済政策を軸に置いてきた。
(略)
 小泉改革以降、格差は確実に拡大。財政問題が背景にあるとしても、社会保障というセーフティネットが「どんどん軽視されるように。55年体制下に格差是正の手段であった公共事業や補助金行政などは残っているが、今となっては時代遅れの手法のだけが顕著になり、再分配の機能を果たせなくなっている。
 競争重視で弱肉強食的な新自由主義的傾向は、戦後の「保守」本流と明確に異なるのみならず、水田稲作を中心とした農耕社会を基本に、村落共同体が1500年にわたって積み重ねてきた、「支え合い」と「助け合い」という日本の歴史と伝統に明確に反している。

 安倍前総理時代の独善的な姿勢、国民を敵と味方に分け、味方以外を敵視する姿勢も、全く「保守」的ではない。
 自分と異なる価値観を一刀両断で否定する姿勢は、合意形成を重視してきた日本の歴史や伝統とは異なる。
 自分が独善的に「正しい」と信じる社会を思い描き、あらゆる異論を廃して、「この道しかない」とまっしぐらに進もうとする姿勢は、本来の「保守」主義が嫌う姿勢であり、それはむしろ「革新」に近い
 さらに「保守」的でないのは、安倍政権の「昭和初期体制」への親和性の高さだ。
 1500年の歴史の中で「昭和初期体制」は異質な特徴を持ち、武力で物事に決着をつけようという志向性や、絶対的で排他的な価値観で社会国家を染め上げるそれは、多様性と寛容を基本とする日本の歴史と伝統とは明らかに矛盾する。
 第二次安倍政権は、「昭和初期体制」を懐古してきたように見え、守るべき日本の歴史と伝統について「明治維新以降の150年ほどの近代化プロセスの流れ」だと考え、これをさらに加速させようとした。
(彼が)「日本を取り戻す!」と叫ぶ時の「日本」とは、まさに(その)当時の日本であろう。
 その姿勢が、本当の意味の「保守」であるはずがない。


 自分が独善的に「正しい」と信じる社会を思い描き、あらゆる異論を廃して、「この道しかない」とまっしぐらに進もうとする姿勢は、本来の「保守」主義が嫌う姿勢であり、それはむしろ「革新」に近い

 この言は、ある意味黙って見過ごす、聞き過ごすことはできないですね。
 革新をそう言い換えることは、一応現時点では「リベラル」とみなされている自党立民が、本質的にそういう側面を隠し持っているイメージを抱かせるリスクがあることに注意が必要です。
 また細かいことですが、安倍一派が、150年しか見ていないなどということ、昭和初期体制のみを懐古するという指摘は絶対否定するでしょう。
 そして、繰り返される「多様性と寛容を基本とする日本の歴史と伝統」が、すべて誤りのない、絶対的なものとすることで、どこかで身動きが取れなくなる可能性を含んでいる表現であることを指摘して起きたいと思うのです。
 
 

今問われているもの

 第1章の最後は、こうくくられています。

 今問われているのは、「保守」とは、1500年の歴史を重視することなのか、近代化を進めた明治以降のわずか150年を重視することなのか、である。
 明治維新をもたらしたものを考えれば、後者は、「日本の欧米化を進める」路線ということだ。
 それは本当に、日本における「保守」なのだろうか。
(略)
 欧米流の新自由主義は、日本の伝統的な支え合いを壊してきた。
 そのことは、この20~30年の日本の競争力を高め、日本人を幸せにしてきたのか。
(略)
 (その)根本から、文字どおり私たちの「国のかたち」が、そして目指すべきあり方そのものが、問われている。
 「私は保守だから自民党支持」と考えている国民の皆さんには、本当に今の自民党が、あなたがシンパシーを感じる本来の「保守」政党であるのかどうかを問い直してほしい。
 いま一度、「保守」「リベラル」の意味を問い直した上で、あるいは、そのようなレッテルから離れた上で、現在の政治のありようを見つめてほしい。
 私が、批判を覚悟で「保守本流」と自称しているのは、こうした思いが背景になっている。


 今問われているのは、「保守」とは、1500年の歴史を重視することなのか、近代化を進めた明治以降のわずか150年を重視することなのか、である。

 こんな問いかけを一体だれがするのでしょうか。
 その問いかけをすることに、どれほどの意味・意義を見いだせるのでしょうか。
 ズレている、としか言いようがないのですが。

 自民党支持の人に問い直すのは自由ですが、自党立憲民主党を「保守本流」政党と見てくれと望むと、どういう反応が返ってくるか、想像が付こうというものです。
 もし、立憲民主党が「保守」とみなされるようになれば、今の自民党は、どうみなされるのか。
 枝野氏および立憲民主党が、自民党の本質に別名を付けて、政党名転換革命を起こそうとでもいうのか。
 それこそ、日本の歴史と伝統に反することになりはしないか。
 そう懸念するのです。
 一つ想像できるのは、あり得ない話ですが、立民が保守本流を乗っ取ると、自民党は、強力な右派ポピュリズム政党に変貌を遂げる可能性が強くなるのでは。
 あり得ない話でもなさそうに思えませんか。
 

枝野氏の歴史観及び保守論から、今考えること、思うこと

 極力、枝野氏の言わんとしていることを真っ直ぐに、素直に受け止めようと、読み直しつつ、ポイントを転載してきました。
 しかし、彼の歴史観、歴史認識や保守論は、普遍的とは決して呼び得ないものであり、右寄りの人々からの反論、スキや穴を突いてくる批判をあまた浴びせられる、格好のターゲットになるでしょう。
 枝野氏の視点・論点が、ごくごく一面のみからのものであり、反論する側の反証も部分部分の抽出になるため、民主的にどこかで折り合いが付くことなどあり得ないのです。
 彼の本書の導入部で、読者をひきつけるどころか、早々に離反させることになりかねない内容。
 率直にそう思います。
 
 こうした認識・意識のズレが、この第1章だけでとどまればよいのですが、果たしてどうでしょう。
 私が今感じているズレが、本質的にはどうなのか。
 先述した『日本の分断 私たちの民主主義の未来について』が、そのズレについて、より明晰な分析を提示してくれているので、楽しみにして頂きたいと思います。

 また、第1章で、そして本書のタイトルにも含まれている「支え合う」「支え合い」という表現。
 これも誰が主体で、誰が対象なのか。
 突き詰めていくと、非常に微妙な問題をはらんでおり、簡単に用いるべき用語ではないと私は常々考えています。
 その理由、その用い方など、今後のシリーズの中で取り上げたいと思っています。

 次回は、<第3章 新型コロナウイルス感染症が突きつけた日本の課題>と、<第5章 新自由主義の限界>に進みます。

 

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