資本主義の終焉への対応、閉じた帝国の実現、正義の政治経済学の実証は可能か:水野和夫氏の著述から

政治・行政政策

 先月5月ほぼ同時期に入手し、同月内に斜め読みを終えた3冊の新書
・『正義の政治経済学 (朝日新書)』(水野和夫・古川元久氏共著:2021/3/30刊)
・『人を救えない国 安倍・菅政権で失われた経済を取り戻す (朝日新書)』(金子勝氏著:2021/2/28刊)
・『パンデミック以後 米中激突と日本の最終選択 (朝日新書)』(エマニュエル・トッド氏談:2021/2/28刊)
を順に取り上げたいと思っていましたが、ようやく、1番初めの書『正義の政治経済学』を今回取り上げることになりました。

 同書は、水野和夫氏と現在国民民主党衆議院議員である古川元久氏との対談形式のもの。
 この本で、古川氏がこんなことを考えている国会議員なんだ、と珍しく評価できる内容の話をしていることに感心したのですが、注目していたのは水野氏の方。
 同氏の書だったので買い求めたものです。
 同氏への関心は、過去読んだ同氏による
・『資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)』(2014/3/19刊)
・『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済 (集英社新書)』(2017/5/22刊)
の2冊から得たもの。

 従い、今回は、この2冊からも紹介し、最後に『正義の政治経済学』でまとめるスタイルにします。
 但し、最後の書は対談形式なので、その中の水野氏の発言部分のみ参考にして用いることにします。
 古川氏は現役の国民民主党衆院議員。
 本書では、珍しく長期的観点からの発言があり興味も持ったのですが、基本的には同党の政策に示されるべき内容と思いますので、別の機会に内容をみることにしたいと思います。

 但し、これらの書のタイトルでも分かるとおり、水野氏の論述は、歴史を重視し、常に歴史的考察を軸にして進められています。
 本来その歴史論のエッセンスを混じえて、紹介を進めるべきですが、それでは、3冊めまでたどり着くことは、時間的に、歴史的にムリと思われます。
 そのため、現状とこれからの「資本主義」のあり方にのみ焦点をあて、深く幅広い、グローバルレベルでの歴史的記述と考察は、思い切って省略させて頂くことをご了承頂きたいと思います。
 その絞りにしぼった内容においても、本来説明を要する事項についても省略することも重ねてお詫び申し上げます。

資本主義の終焉と歴史の危機』より


経済成長という信仰がもたらす資本主義の終焉

 行き過ぎた資本主義、という考え方は、既に広く取り上げられ、理解されていることですが、水野氏による基本認識を、まず、本書の<第3章 日本の未来をつくる脱成長モデル>の冒頭の文章を引用して紹介します。

 政界にしろ、ビジネス界にしろ、ほとんどの人々は「資本主義が終わる」、あるいは「近代が終わる」などとは夢にも思っていないようだ。その証拠に、アメリカをはじめどの先進国も経済成長をいまだに追い求め、企業は利潤を追求し続けている。
 近代とは経済的に見れば、成長と同義語。
 資本主義は「成長」をもっとも効率的に行うシステムだが、その環境や基盤を近代国家が整えていった。
 資本主義の終焉を指摘することで警鐘を鳴らしたいのは、こうした「成長教」にしがみ続けることが、かえって大勢の人々を不幸にしてしまい、その結果、近代国家の基盤を危うくさせてしまうから
 もはや利潤をあげる空間がないところで無理やり利潤を追求すれば、そのしわ寄せは格差や貧困という形をとって弱者に集中する
 そして、現代の弱者は、圧倒的多数の中間層が没落する形となって現れる

 その第3章中の文章をもう少し、加筆・簡略化して付け加えます。

 資本主義のあとに、どのような社会・経済システムが生まれるかまだわからないが、難しい転換期において日本は新しいシステムを生み出すポテンシャルという点で、世界のなかでもっとも優位な立場にある
 その理由は、先進国のなかでもっとも早く資本主義の限界に突き当たっているからであり、1997年から現在に至るまで、超低金利時代がこの国で続いていることが立証している。

 金融緩和をしてもデフレは脱却できず、積極財政政策は賃金を削り、構造改革や積極財政では近代の危機は乗り越えることができない。

 ゼロ金利は資本主義卒業の証であり、成長を求めるほど危機を呼び寄せてしまうゆえに、近代そのものを見直して、脱成長システム、ポスト近代システムを見据えるべき

 その明確な解答を持ち合わせていないが、少なくとも新しい制度設計ができ上がるまで、「破滅」を回避しすべく、当面、資本主義の「強欲」と「過剰」にブレーキをかけることに専念する必要がある

 資本主義を乗り越えるために日本がすべきことは、景気優先の成長主義から脱して、新しいシステムを構築することだが、その具体像が見えないとき、財政でなすべきことは均衡させておくこと
 実際に新しいシステムの方向性が見えてきたときに、巨額の財政赤字を抱えていたのでは、次の一歩が踏み出せないから。
 それは単に増税・歳出カットで財政均衡を図ればいいということではなく、社会保障も含めてゼロ成長でも維持可能な財政制度設計をしなければいけない。
 加えて、エネルギー問題の解消を図るべく、名目GDPを定常状態で維持するために、国内で安いエネルギーを自給することが必要

「脱成長」や「ゼロ成長」は後ろ向きの姿勢と捉えがちだが、そうではなく、いまや成長主義こそが「倒錯」しているのであり、結果として後ろを向くことになるのであり、それを食い止める前向きの指針が「脱成長」である。


 財政赤字の健全化、財政制度設計の必要性を提示しますが、その具体的な方法・方策についての詳述がないことが、私にとって本書に対する数少ない不満項目の一つです。
 社会保障も含めてのゼロ成長、ということは、どうすれば実現できるのか。
 一貫して、意外に展開・主張されていないのが、所得の再分配についてです。
 「単に増税・歳出カットで財政均衡を図ればいいということではない」というのが、少し気になる部分でした。

 豊かさを「必要な物が必要なときに、必要な場所で手に入る」と定義すれば、ゼロ金利・ゼロインフレの社会である日本は、いち早く定常状態を実現することで、この豊かさを手に入れることができる。
 そのためには「より速く、より遠くへ、より合理的に」という近代資本主義を駆動させてきた理念もまた逆回転させ、「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」と転じなければならない。
 「歴史の危機」である現在を、どのように生きるかによって、危機がもたらす犠牲は大きく異なってくる。
 今まさに「脱成長という成長」を本気で考えなければならない時期を迎えている。

 本書の出版は2014年。
 「脱成長」という表現と考え方については、既に当サイトで、斉藤幸平氏による著『人新世の「資本論」 』(2020/9/22刊)を対象とした以下のシリーズで見ています。

帝国的生活様式、グリーン・ニューディール、気候ケインズとは:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-1(2021/4/25)
なぜ今マルクスか、「人新世のマルクス」:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-2(2021/4/27)
資本主義と同根の左派加速主義大批判:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-3(2021/4/29)
脱成長コミュニズムというユートピアは実現可能か:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-4(2021/5/2)

 しかし、斉藤氏の論は、あくまでもマルキシズム、資本論を基盤としたものであり、共通点はありますが、それとは異なる水野氏独自の論点からのものとして読み進めるべきと考えます。
 事実、私は、斉藤氏のその書を知る前、入手し読む以前に、2冊を読み終え、良い本だなと感動体験を得ているのです。

 脱成長を考える端緒としてみた「資本主義の終焉」の歴史性・必然性。
 その対策を最も身近に考えうるのが日本、としたことはいささか甘い、希望的観測と思いつつ、では、どのような手立てが適切なのか。
 次の『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』の中でみることができるでしょうか。

閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』より

「資本主義の終焉」という「歴史の危機」を乗り越えるために必要なのはどんなシステムなのか。
 このあと世界が100年近くかけて移行していくと考えるのは、「閉じた帝国」が複数並び立つという世界システムである。

 この文章から始まる書。
 鍵となる「閉じてゆく帝国」とはどういうことか、<第3章 生き残るのは「閉じた帝国」>の記述から一部転載します。

 1970年代後半に国民国家と資本主義の限界が明らかになり、「長い21世紀」に突入した後の世界に、アメリカ金融・資本帝国EU帝国というふたつの「帝国」が登場した。
 アメリカはアメリカ合衆国という連邦国家であり、EUは「欧州連合」という地域統合体。
 どちらも表立って公式に「帝国」を名乗っているわけではなく、「非公式の帝国(informal empire)」。
 「併合による支配と植民地総督の下での統治」を意味する「公式の帝国」に対して、「非公式の帝国」とは、「法的には独立した周辺政権の対内的・対外的政策に対して、従属的な周辺エリートへの買収や操縦により間接的に支配を及ぼす」存在である。

 そしてこう続けます。

 国境なき「電子・金融空間」のなかで、資本家や巨大企業がおりなすネットワークは、もはやアメリカ金融・資本帝国というよりも、アメリカという土地に立脚しない、無国籍の「資本帝国」と呼ぶほうがふさわしい。
(略)
 主権国家の平等性は国内秩序を維持できても、国際秩序や、さらにはその上位概念である世界秩序が安泰しない。
 そこで、世界秩序に責任をもつ「非公式の帝国」が登場した。 
 とすれば、主権国家システムは過渡的なものに過ぎず、帝国システムのほうが普遍性を有しているとも言える。
(略)
 現在のEUはかつてないほどの危機にさらされている。
 しかし、「EU帝国」は「陸の国」がほとんどなので、「実物投資空間」を基盤にしており、アメリカ帝国の基盤である「電子・金融空間」と違い、それは、土地の上に存在する。
 従い、利潤は概ね「実物投資空間」で働く人に還元され、国民への還元が少ないアメリカ帝国と大きく異なる。

ダニ・ロドリックの「世界経済の政治的トリレンマ」と未来を決める3つの道

 そこで、ダニの考え方として、世界経済の未来を決めるのは、「ハイパーグローバリゼーション」「国家主権」「民主主義」の3択のうちの2つの組み合わせしかないとした以下の3つの道を示します。

1)ハイパーグローバリゼーション+国家主権=新自由主義
2)ハイパーグローバリゼーション+民主主義=世界政府
3)国家主権+民主主義=国民主権国家システム

 ここで筆者は、3)をも「資本主義の終焉」を理由に不可能としたうえで、そのいずれでもない、閉じた帝国における「EU帝国」の可能性を主張するのです。
 そして、こう付け加えています。

 経済単位と政治単位が一致するのが秩序安定にとって最適なので、食糧、エネルギー、工業製品(生産能力)がその地域で揃う「地域帝国」サイズの単位が、21世紀の経済単位としては最大となる可能性が高い。
 資本の希少性が解消しゼロ金利が実現した日本やドイツでは、地域帝国のサブシステムとして国民国家よりさらに小さい単位が大半の企業の活動範囲となっていくだろう。
 「より近く、よりゆっくり、より寛容な」社会への移行がおきる。
 (略)
 地球規模で見ると、経済圏が閉じないまま、世界のグローバリゼーションがさらに深化し、「資本帝国」が世界中で富を収奪すればするほど、経済どころか、安全や秩序は脅かされていく
 「資本帝国」の収奪を防ぐためには、経済圏を「閉じる」方向に舵を切る必要がある


 ということで、日本に可能性があるような提言がなされているのですが、私には、どうも、日本の政治家や官僚、そして財界や企業家が、こうした歴史的状況、資本主義の現状と将来への危機感や望ましい認識を持ち得ているとは到底思えないのです。
 言うならば、「馬の耳に念仏」「馬耳東風」。
 
 しかし、望ましい2050年の日本社会創造のためのビジョンとその実現手段の軸として提案している、日本独自のベーシックインカム、ベーシック・ペンション生活基礎年金実現上の方法・意図とも相通じる点が多く、水野氏のこうした論述と考え方に親近感を抱いています。

 そこで最後に、『正義の政治経済学』を見ることにしますが、上記の2冊で既に水野氏論の本質をほぼ言い尽くしていると考えられ、それにコロナ禍を経験しての考察を加えるかたちでの対談です。

正義の政治経済学』より

 本書は対談形式なので、その中の水野氏の発言部分のみ参考にして用いることにします。
 古川氏は現役の国民民主党衆院議員。
 古川氏による長期的観点からの発言があり興味も持ったのですが、基本的には同党の政策に示されるべき内容と思いますので、同党の政策を通じて別の機会で確認したいと思います。 

「明日のことなど心配しない社会」の実現へ

・富の再分配機能を、もっと意識的に導入すべき
・資産課税の強化を優先すべき
・人口構成上、若い世代が高齢者の社会保障を負担するのは無理
などと発言したあと、少し意外な以下の提案がみられました。

 ある意味、ゼロ金利は、事実上の永久国債のようなもので、一般庶民の意志もないのに、国債を買わされているようなもの。ならばいっそのこと「国債」ではなく、「出資金」という名に変更して売り出せばいいんじゃないか。
 現在、1000兆円の出資金(国債)があるが、その配当は現金では受け取れない。但し世界一の水準で医療保険や年金、介護保険を受けられますという仕組みにしたらどうだろうか。
(略)
 倫理面、マインド面「よりゆっくり、より近く、より寛容に」へリセットすれば、新しい未来を切り拓くことだって不可能ではないはず。
(略)
 右肩上がりの成長教から解放された<定常社会>の実現こそが、歩むべき道。

 なお、初めの書では「より曖昧に」となっていたのが、2冊めからは「より寛容に」と変化していることも大切なことと思います。
 その「よりゆっくり、より近く、より寛容に」がポストコロナ社会の行動原理となり、ケインズのいう「明日のことなど心配しない社会」を構築することにつながるともしています。

民主主義国家の致命的な欠陥

 民主主義国家には、必ずしも政治家としての<才能>と<正義>を兼ね備えた人物が国のトップに立つわけではないという致命的な欠陥がある
 白か黒ではない、その間の葛藤に、<正義>はある。 

 ここ数年にわたって、わが国で見せ続けられている政治とそのトップの有り様を見事に示している指摘がこれです。
 本書の表紙の帯に「さらば成長教。 資本主義の先へ、民主主義の基へ、コモンを生きる実践知!」と書かれているなかの「民主主義」。
 今回は、資本主義に主に視点を当てての本稿でしたが、ここで民主主義とそれが示すべき望ましい政治経済のあり方と繋げるべく、ここで紹介しました。
 そしてもう一つ本質を突く言葉が。

「正義がなければ、王国も盗賊団と異なることはない」

 アウグスティヌスが426年に著した『神の国』の中のこの一節を紹介しつつ、水野氏は、「終わりに」で、以下のようにまとめます。

 世の中の中心概念が一旦嘘をつくと、システムは修復不可能となり瓦解する。
 神、資本を人々が世の中の仕組みの中心であると認めたのは、そこに正義があると信じたからである。
 中心が正義を実現できなくなったら、人々の社会に対する信頼がなくなり、社会秩序が崩壊する。
 正義とはすべての人の救済である。
 「Save」は貯蓄であり、備えることであるので、救済の意味を持つ。
 経済学は誕生の経緯からして人類救済の学問である。
 経済成長によってすべての怪我を治す時代であった近代は20世紀になって成長理論が開花したが、21世紀は「正義の政治経済学」が必要になる。

 果たして、現代の経済学が人類救済の学問足りうるか。
 疑問、疑念のあるところですが、水野氏のような正義派が厳然と存在することを多としたいと思います。

 ただ私自身は「正義」という言葉を用いることには、面映ゆさを感じます。
 私はこども時代に、「正義が勝つとは限らない」という見方を身につけ、恐らく生涯それは変わることがないと思うゆえです。
 そして、この社会には不条理にも「不正義」が、あって当然のようにまかりとおり、蔓延っているからです。


望ましい2050年の社会実現で、資本主義の終焉への対応、閉じた帝国の実現、正義の政治経済学の実証を


 民主主義には、その時代、その時代の社会を背景にした民主主義が存在しました。
 現代ではとてもそれが民主主義とは言えないものであっても。
 そして未だに、理想とすべき民主主義を実現し継続した国家や地域は見ることがありません。
 人類救済の学問であるとする経済学も、同様で、普遍的に社会に継続的に寄与する経済学を手にしたこともありません。
 そして資本主義。
 行き過ぎた金融資本主義を適切に制御し、正義を実践する政治経済学をバックボーンとした正義の民主主義政治を体現する、望ましい閉じた帝国構想が、多くの市民の支持を集めるということも、まだまだ非現実的なことです。

 しかし、そうした望ましい社会システム、社会経済システムをなんとか2050年までに実現の目処、道筋を付けたい。
 そういう思いで、当サイトを運営し、その手法の基軸としてベーシック・ペンション、生活基礎年金制度を位置づけることが、水野氏の「資本主義の終焉」に対応する「閉じた帝国」の実現と「正義の政治経済学」の実践と証明に結びつくと、心静かに信じて歩を進めます。

 次回は、金子勝氏の著『人を救えない国 安倍・菅政権で失われた経済を取り戻す』(2021/2/28刊)を題材にして考えてみたいと思います。


 

 

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