
社会システム改革に先行して必要な教育システム改革:序論というより助走メモとして
企業人の潜在能力の高さと教育の関係
30年余にわたって、自称経営コンサルタントとして企業経営、その中で、とりわけ人事評価制度、業務改善、マネジメントなど人の意欲と能力の向上に関係するお手伝いをしてきた。
その多くの場面で感じたのは、企業で働く人たちの誠実さと一定基準以上の潜在的・顕在的能力のレベルだった。
例えばブループ演習などにおいて、初めはなかなか発揮できなかった能力も、粘り強く意見交換し、議論・検討を重ねることで、ある程度納得できるレベルのアウトプットに到達。
そのプレゼンテーションも、回数を重ねれば、同様にレベルアップした。
これは、大企業のレベルの高い人たちの研修・演習ではなくて、中堅・中小企業でのことだった。
言い換えれば、日常業務で発揮することがない潜在的な能力も、機会を得れば、十分貢献できる能力として創出できるのだ。
それは、コミュニケーション能力を代表とするヒューマンスキルにおいても言えることであった。
コミュニケーションが苦手であっても、それをスキルと捉えるのではなく、基本的な態度姿勢として、考え、取り組んでみる。
自分のこれまでの経験を思い起こし、ポジティブな発想・行動に変えてみることで、気づきが可能になり、苦手も解消できるのだ。
その可能性を持つ企業人は、全員、義務教育を受けた、高卒・大卒の社会人である。


社会問題化する大人を多数送り出す教育過程・教育課程の現実
今回のテーマは、企業人・社会人の教育、能力開発ではない。
義務教育課程と高校レベルでの教育が課題だ。
こうした潜在的な能力を持つ社会人・企業人は、みな義務教育以上の教育を受けてきた。
その大人たちの大半が、企業人、社会人として社会貢献している。
しかし、社会的なひきこもり人口は増加の一途をたどり、推定で200万人以上はいるとされる。
またネット社会の進行や超高齢者社会の進行に伴い、ヘイト・誹謗中傷や詐欺などの犯罪が、日常化・常態化してしまっている時代でもある。
また根っこは「いじめ」である種々のハラスメントが感染症のように広がる事情も、同じだ。
それらはコロナ禍における緊急事態宣言が一応功を奏したように、一斉に撲滅運動を掲げれば収束・消滅するようなものならばいいのだが。
それは、ある意味断じてないだろう。
しかし、将来に向けて、可能ならばその芽そして根は摘んでおきたい。
教育の力で。
道徳や倫理という従来・旧来の力、概念を借りずに。
同じ社会人、大人という括りで、どうして望ましい社会性と忌み嫌うべき反社会性という真反対の行動と人格が出現し、存在する要因はどこにあるのか。
そのすべてが格差・貧困と因果関係があるわけでもないが、やはり気になる。
昨日ネットで注文した新書のタイトルが
『教育は何を評価してきたのか』というもの。
気になるタイトルだったので読んでみることにした。
また昨年斜め読みしたものに
『教育格差』がある。
後日、教育システム改革と関連付けて紹介したい。
また、同様昨年読んだ新書に
『ヒトは「いじめ」をやめられない』と『いじめを生む教室』の2冊がある。
なくなることのない、いじめによる自殺と教育委や教師の対応問題からだけでなく、ひきこもりを招く要因の多くが、児童・学生期のいじめや、成人後のパワハラ体験ということから、教育課題として「いじめ」撲滅があるわけだ。
加えて、その影響として論じた
『中高年ひきこもり』や『8050問題の深層』でテーマの、ひきこもる人たちが抱える就労機会からの離脱や社会関係・人間関係作りの困難さは、やはり社会に出る前段階、すなわち教育問題に関わるものとすべきではないかとも考える。


新しい教育システム様式時代の必須カリキュラム
2050年に向けての社会システム改革を提起することが、当ブログサイトの基本方針の一つである。
その包括的なシステム改革の基盤として提起しているのが、全世代・生涯型「社会保障保険制度」だ。
その包括的・統合型社会保障制度の中に、教育も含めて議論・提案を行うことも意図している。
【憲法第三章国民の権利と義務】の条文中にある「社会福祉・社会保障・公衆衛生」、「教育を受ける権利」「学問の自由」等が、「基本的人権」として包括して規定されているものと考えるためでもある。
そこでは、社会保障が最上位の概念とするのだ。
言い換えると、義務教育課程と高校教育課程における教育において、社会保障システムを理解し、社会人としての責任と義務を果たすことができる知識・能力・見識を身に付け、社会人となって以降実践できるよう準備することになる。
今回のメモのまとめとして、教育システム改革において盛り込むべき課題・カリキュラムの大枠を示しておきたい。
必須カリキュラム大項目案である。
(1)職業選択の自由と職種・職務能力の身に付け方
(2)社会保障制度の理解と公的申請・相談・諸手続き方法
(3)起業と事業経営の基礎知識(法人登記、簿記基礎)
(4)社会人としての法律(刑法・民法・各訴訟法等)の基礎知識
(5)ネット活用と社会保障システム活用による自己啓発・能力開発方法


生きがい・働きがい・希望のある仕事・働き方選択の自由と権利を提供する教育カリキュラム、教育環境を
以前、都立工業高校校長会会長の「普通科以外の選択肢も視野に」という投稿記事を読んだことがある。
入試倍率が低いので入りやすいと冗談を言いつつ、卒業時には、自動車・IT・建設大手に人気で、専門科の多くは就職率も正規雇用率もほぼ100%。
卒業生が大学を目指すケースもあるとのこと。
専門科における、例えば、旋盤技術やゲームアプリ開発等の実習課程が、就職先での即戦力として評価される能力を習得する重要な意味を持つわけだ。
また高校ではあるが、専門課程であるがゆえの地域交流・企業交流があることもアピールしていた。
特に目標もなく、ただ大学に入ることを目的として「普通科」を選ぶ。
振り返れば自分もそうだったのだが、すぐには埋めがたい教育格差を、別のアプローチから克服する生き方・働き方を考える機会・場があるのが、義務教育後期と高等学校教育課程。
その意義と目的・目標を明確にする教育システム改革の必要性を、今、そしてこれからの時代、強く感じる。
企業や職場の現場経験・実践実務経験を持つ社会人・専門家による専門教育は、中学校と高校課程においての必修科目とすべきだろう。
夢や使命感、生きがい・やりがいを持って働く現役世代の体験談と基礎スキルの教育は、机上と精神論にのみほとんどを頼りとする教員専門職には求めにくいものだろう。
教育の現場のあり方も変革が必要である。
電子端末とネットを駆使して、情報検索や諸手続きの実際、新しい技術技能習得のための情報やカリキュラム入手。
スピーディで、臨場感や達成感もリアルに経験できる新しい教育環境とシステム。
自学自習で種々の壁を乗り越え、新しい領域へ踏み入れることも可能な教育。
もう既存の、旧来の「教育」が変質・変革していて当然の時代に入っているのだ。


想定外の事態が起きても持続可能な、人と社会のための「教育」という課題
コロナ禍と緊急事態宣言による休業や自粛などにより、事業運営・企業経営と就労の機会を失い、収益・収入をも失う大きな問題が起きた。
その影響を受けて、仕事のあり方、雇用のあり方、就労先について考える機会を持ち、生き方に働き方を重ね合わせて、今後と将来を否が応でも考えさせられることになった。
これは、今学生にある若者や、小中学生、幼稚園・保育園児の将来について考えることも当然含む。
想定外が日常化・常態化するリスクが、常に付いて回る時代・社会と考えるべきだろう。
そういう時にも生き残り、社会活動を継続可能にする社会システムを日常を通じて構築していく。
そのために「教育」は欠かせない。
今の教育システム、教育制度のままであってはいけない。
実は、無邪気が可愛い、とされる子どもの社会で、いじめが日常化している。
私は、子どもイコール無邪気とすることには違和感を持つ。
子どもこそのわがまま、エゴ、すなわち邪気があり、邪気を持つのだ。
多くの大人は、その邪気を持ったまま社会に出、多様な邪気を発するのだ。
その元となる、子ども時代の邪気を、排除してしまうことも教育の目的の一つとすべきなのだろう。
ゆえに、教育の質、教員の質も大きな問題だ。
邪気なこどものいじめと同じレベルで、いやもっと悪質なレベルでのいじめを学校現場で日常様式としていた教員もいる。
何ごとも隠し通そうとする教育委員会もフツーに存在する。
何をよりどころにすればいいの分からない大人社会が厳然と、そして隠然とある。
こうした時代において、教育行政に関わる官僚そして政治家や教員・公務員、そして教育○○学者・研究者、○○教育学者・研究者、すなわちそれらを生業とする人々、専門家の役割・責任はどうあるのだろうか。
そして、教育を受ける権利をもつ子どもに、教育を受けさせる義務をもつ親は、家庭において子どもとどう向き合い、どのように望ましい役割と責任を果たせばよいのだろうか。
こういう課題を想定する時、教育システム改革は、やはり、社会システム改革の一環として位置づけられ、取り組まれるべきと理解できる。
2050年の望ましい社会を創造するための社会システム改革。
それを可能にする後継世代の教育システムを、先行世代は議論検討し、改善・改革を先行すべき責任があるのだ。


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