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資本主義脱却でも描けぬ理想社会:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-4

以下の3冊の新刊新書を参考にしての、これからの日本の政治と経済について考えるシリーズ。
序論としての初めの2回の投稿は以下。
資本主義、資本論、社会主義から考えるコロナ後の日本の政治・経済・社会(2021/4/19)
経済重視の左翼対脱経済のコミュニズム:資本主義をめぐるこれからの政治と経済(2021/4/20)

・『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著::2021/3/30刊)
・『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)
・『いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 』(池上彰・的場昭弘氏共著:2020/12/30刊)

初めに取り上げたのが人新世の「資本論」 斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)。
『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済>と題した、以下の4回シリーズ。

帝国的生活様式、グリーン・ニューディール、気候ケインズとは:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-1(2021/4/25)
なぜ今マルクスか、「人新世のマルクス」:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-2(2021/4/27)
資本主義と同根の左派加速主義大批判:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-3(2021/4/29)
脱成長コミュニズムというユートピアは実現可能か:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-4(2021/5/2)


次いで、『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著:2021/3/30刊)を題材としての以下の3記事を投稿してきました。

資本主義リアリズム、加速主義、閉塞状態にある資本主義の正し方:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-1(2021/5/7)
知らなかった、民間銀行の濡れ手で粟の信用創造:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-2(2021/5/9)
信用創造廃止と貨幣発行公有化で、資本主義と社会はどうなるのか:『資本主義から脱却せよ』から考える社会経済システム-3(2021/5/11)

そして今回は、以上の3つを受けて、その総括を行います。

資本主義から脱却せよ』の構成

本書の全編を高橋真矢氏が道案内役として、各章の初めにコメントを寄せています。
そして何より、プロローグを担当し、エピローグも。
ある意味、高橋氏が企画編集したかのように受け止めうる『資本主義から脱却せよ』。
その全体構成は、次のとおりです。

プロローグ 私たちの「借金」とは何か? (高橋氏)
第1章 そもそも、お金とは何か? (高橋氏)
第2章 債務棒引き制度はなぜ、どの程度必要か (松尾氏)
第3章 現代資本主義の問題点 (井上氏)
第4章 私たちは何を取り戻すべきなのか (高橋氏)
第5章 銀行中心の貨幣制度から国民中心の貨幣制度へ (井上氏)
第6章 信用創造を廃止し、貨幣発行を公有化する (松尾氏)
第7章 「すべての人びと」が恩恵を受ける経済のあり方とは? (高橋氏)
第8章 淘汰と緊縮へのコロナショックドクトリン (松尾氏)
第9章 「選択の自由の罠」からの解放 (高橋氏)
第10章 「考える私」「感じる私」にとっての選択 (松尾氏)
第11章 脱労働社会の人間の価値について (井上氏)
エピローグ 不平等の拡大と個人空間化 (高橋氏)


5章、6章で課題とした、民間銀行による信用創造廃止と、貨幣発行の公有化による国民中心の貨幣制度を実現すれば、どんな社会となるのか、そのことでどんな社会を目指すのかが、その後の課題とされるべきです。

一応、次の第7章<「すべての人びと」が恩恵を受ける経済のあり方とは?>において、高橋真矢氏が、3つのB、ベーシックスペース、ベーシックジョブ、ベーシックインカムの必要性・実現を提起したことを、別サイトで以下紹介しました。
高橋真矢氏によるベーシックスペース、ベーシックジョブ、ベーシックインカム、3B政策と課題(2021/4/22)
ただ、この3つのBベーシックを実現する政治体制や社会経済システムの具体的なあり方は、そこでは踏み込まれていません。
従いこの展開でいくと、8章以降で、当論で目指す、資本主義脱却後の社会と社会経済について、より具体的・現実的に提示・提供すべきと思うのですが。

松尾匡氏、井上智洋氏紹介

それに先立って、まず、松尾匡氏について簡単に。
同氏は、自ら主宰する「薔薇マークキャンペーン」で「反緊縮」を掲げる左派経済学者。
そのサイトにおいて、自身は直接関与しないとして先月公開された、井上氏を含む3氏のベーシックインカム構想を以下で紹介しました。
朴勝俊・山森亮・井上智洋氏提案の「99%のためのベーシックインカム構想」ー1(紹介編)(2021/4/8)
朴勝俊・山森亮・井上智洋氏提案の「99%のためのベーシックインカム構想」ー2(評価編)その意義と課題(2021/4/9)
そこで分かるように、松尾氏自身は、ベーシックインカムとは少し距離を置いているように思われます。

なお近々、同氏の比較的最近の書『左翼の逆襲 社会破壊に屈しないための経済学 (講談社現代新書)』(2020/11刊)を求めて、考えの基本を再確認してみようとは思っています。

井上智洋氏については、同氏の主張を以下のように何度か取り上げてきています。
ベーシック・インカムとは-3:AIによる脱労働社会論から学ぶベーシック・インカム(2020/6/15)
井上智洋氏提案ベーシックインカムは、所得再分配による固定BIとMMTによる変動BIの2階建て(2021/2/24)

※参考図書:『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)』『AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)』『毎年120万円を配れば日本が幸せになる

先述したように、本書の分担部分でも、それらでの主張が繰り返されており、かつ、2氏に比べるとある意味、実務的なパートの担当で終えています。

ということで、結局高橋氏がどう本書をまとめ、ポスト資本主義時代の社会と社会経済を描くのかにかかると思ったのです。

高橋真矢氏の発言から:<第9章「選択の自由の罠」からの解放>より

では、高橋氏による第9章から。

自由は私たちを「幸せ」にするか
資本主義的な社会を貫く法則こそ、「選択の自由」というコンセプトである。
私たちは日々、商品やサービスを選択する。
学校や就職先など進路を選択する。
友人や恋人や結婚相手を選択する。
誰を選ぶのか、誰も選ばないのか、すべて個人の自由である。
これは裏返すと、選別をくぐり抜けるということでもある。
入学試験や就職試験をくぐり抜け、選んでもらえるような商品やサービスを提供し、選んでもらえるような自分にならなければならない。

悲惨な結果であれ、その選択をした人の責任である。
なぜならば、選択を誤ったからである。
選ばれなかったのも、その人の責任である。
その人の努力が足りなかったのだ・・・・

多様な選択肢がある、というのは通常で考えればいいことに違いない。
一方で、私は「選択の自由」というコンセプトそのものにも、一定の疑問符をつけている。
「選択の自由」に関しての「合成の誤謬」が起こっているのではないか、と。

自由を否定したいわけではない。
ただ、自由の「その先」に待っているものについても、そろそろ考えてみたい。
自由からの逃走ではなく、自由からもいったん自由になるということ。

私は、三人でこの本を作るにあたって、自由の価値そのものを、松尾さんと井上さんに今一度問いたいと思った。
お二人とも、自由に高い価値を置いているからだ。
そして、その「自由」は私たちを「幸せ」にするだろうか?
この長い対話は。そこでひとまずの終着点を見るだろう。


「自由」や「平等」。
そして「幸福」。
資本主義に成り代わる何かは、果たして、自由・平等・幸福を保障してくれるのか。
そもそも、このテーマを、本書の中に組み入れる目的・意義は、具体的・現実的にどの程度あるのか。
多様性が、当事者を軸に考えると、単一の数を足したものであるように、選択の自由とは、個々人のレベルでの選択肢の多さを意味するのではなく、人の数だけある選択機会の総和という意味での数の多さをベースにした選択肢の多さとい側面からのことでもあろう。
また、自由・平等・幸福、それぞれ明確な基準を示すことができるはずがないことで、相対的、感覚的な議論に留まることも多い。
思い方、感じ方は人それぞれだし、社会の規模・背景によっても異なる。
そう考えるため、本書への興味をそがれる章となってしまった気がします。



松尾匡氏の発言から考える:<第10章「考える私」「感じる私」にとっての選択>より

次いで、第10章の松尾氏の発言から。

たまたま所属するコミュニティによって選択肢が制約されることが「幸福」だなぞ、筆者(松尾氏)にはおぞましい限りと感じられる。
その意味でリバタリアンだと自覚するし、個人の選択の自由が拡大することこそ幸福を保証すると考えている。
(略)
そもそも資本主義の経済体制のもとで、市民(ブルジョアジー)には営業の自由が保証されていいるが、それは利潤追求という単一の目的を市場から否応なく強要された上で、そのための手段として何が適切かを選択できるという自由に過ぎない。
自己責任でシビアに選ばされて青息吐息になっている市民(ブルジョアジー)の中には、選択肢が増えるほど不幸を感じている者も少なくないだろう。
(略)
それゆえ、選択肢が増えると人が不幸になるという問題の鍵は、本当に大事な選択肢が実質的に限られていることにあったと言えよう。
(略)
当面、生きる術を身につけていなかったり、遊びも知らなかったり、人と愛し合う身構えもなかったりしたとしても暮らしに不自由なく、やがてはいろいろな人生を困難なく送れるようになることを社会が保障してこそ、本当の意味で選択肢が増えたと言えるのである。
(略)
ここで考えられる「自由な選択」というものは、理性的選択とは、ある意味で対極にあることがわかる。
むしろ、選択の結果の自己責任など極力降りかからないよう社会が配慮することが望ましいことになる。
さもなくば、自らの選択の結果を引き受けることができる強い者だけが、実質的な選択肢を享受できることになるのだから。
(略)
このニーズに合致したものは何かということは、どんなに理性を振り絞って計算したとしても、どこまでいっても仮説でしかない。
今採用されているものよりももっといい方法があるかもしれない。
だから、このどこまでいっても未知のニーズに、よりよく合致したものを探すのは、数多くの選択肢からの耐えざる試行錯誤によるほかない。

同じ一人の人間には、(大脳辺縁系で感じるような欲求や情動、身体としての私も含む主体、「感じる私」を自己決定主体としたものと異なり)他方で言葉のような記号の組み合わせを使って「考えている私」という主体もある。
「情報としての主体」と言ってもいい。
人びとに実際に行為をさせるのは、この「考える私」の方である。
自己決定の裏に自己責任が問われるのは、この「考える私」の決定である。
(略)
影響を他人と互いに与え合い、結果としてオリジナリティの高い「考える私」が、人びとのニーズを満たして広く受け入れられていく。
これが、快楽原則を超えた、「人生のストーリーを作る」というようなレベルでの幸福なのだと思っている。
だから、このレベルでの自由とは、交配や突然変異を起こす自由であり、他者から逃げられずに「考える私」を公式に宣伝する自由である。
(略)
筆者の目下の人生も、交配と突然変異という意味ではそれなりにオリジナリティの高い考え方が、それこそ人びとの「感じる私」レベルの暮らしのニーズに合致するために、極少数者から出発して、今のところ広がる展望を持てているという意味では、「幸福」と言えるかもしれない。
しかし、自分の身体レベルの「感じる私」にとってこれが幸福なのかと言えば、いささか生活上のバランスを欠いている気もして、この人生を他人に勧められるかどうかと言えばちょっと躊躇せざるをえない。
鼎談ではそんな話をした。


結婚や生贄などの例を引き合いに出して選択と自由について、高橋氏の意を受けて語っているのですが。
それが、「資本主義からの脱出」後の課題として位置付け、価値付けてのことならば、残念なことであります。

資本主義批判論は、資本主義以外社会においても同様に問いかけられるべき

加えて、上記の両氏の話は、資本主義社会を前提としているのですが、私から見ると、その前提や仮説は、資本主義ではない社会経済体制においても同様の疑問・質問として提起されるものでもあるでしょう。
また松尾氏の話に出てくる、保証された営業の自由というのも誤解であり、さまざまな規制があるのです。
では、社会主義・共産主義体制では、それらの自由はどうなのか、も課題となります。

資本主義から脱却した社会において、こうした選択や自由について、自由に考え、実践できるようになるのか。
あるいは、資本主義から脱却する上でのニーズとして、こうした観点で先に議論しておくべきなのか。
その意図・意味が分かりません。

またこの一部の発言の切り取りにとどまらず、各章のあちこちを確認すると、哲学的というよりも、情緒的・感覚的な発言・表現が多い、というか、そこにとどまっているかのようにも思われるのです。

個人と共同体との関係のあり方について、当然といえば当然ですが、3氏それぞれ異なる考えをもっています。
極端を言うならば、本来重要な「思想的同一性」「共同性」に欠けると思われるのです。

仮に、上記の第9章・第10章が、「起承転結」の「転」として、多少の気分転換、遊び的なものであったとするなら、全体のまとめとすべき最終<第11章脱労働社会の人間の価値について>にその役割が委ねられます。
井上氏がかねてから主張する、AI社会化の究極の形としての「脱労働社会」実現論を、資本主義脱却後のあり方であるかのように配置したことをどう理解すればよいか。
正直、困惑しています。

不発、軸から外れたままのエピローグ:<不平等の拡大と個人空間化>から

では、必然的に高橋氏のエピローグ<不平等の拡大と個人空間化>に多少の期待感を抱くとして。

・経済的不平等は解決できるか?
・「誰かと共に行きていく」者と「誰とも共に生きない」者の分離
・単身社会と孤独死の増加
・「契約的人間関係」の時代
・この時代に結婚する動機はどこから生まれてくるか?
・「誰とも親密に関わらない」という選択
・「コミュニティからの自由」と「関係性の喪失」
・「個人空間」の誕生
・ベーシック・スペースなき社会


こんな小見出しでつなぐエピローグは、結局、現代社会批判に終わってしまっている感じです。
資本主義脱却後の目指す理想社会の姿を、現実的に、あるいは少なくともイメージ化、想像程度はできるレベルで描かれること、提示されることもありませんでした。

現在の新自由主義をひた走ると見る自民党政権批判は当然のことです。
かと言って、習近平共産党独裁中国も、モンスター・プーチンのロシアも、気違い金正恩北朝鮮も支持するはずもない。
では、民間銀行の信用創造を廃止し、貨幣発行を公有化して資本主義脱却を実現した後の政治体制、社会経済システム、そして社会保障などの社会システムを具体的にどう描き、どうわれわれ市民と働く人びとに提示し、納得させるのか。

どうもその手立ては、私には結局彼らの論述から読み取ることはできませんでした。
そういう点では、人新世の「資本論」 に劣ります。
ポスト資本主義の在り方を、マルクスが真に目指した「コミュニズム」を地球正義、環境危機と関係づけて新たに「人新世」の資本主義批判と結び付けて課題とした人新世の「資本論」 シリーズに見劣り、読み劣りします。
またそのシリーズでも指摘した同様の物足りなさ、現実とのズレを感じざるを得ません。

ポスト資本主義考察は振り出しに


そのため、どうやら、ポスト資本主義考察については、振り出しに戻ることになりそうです。

次回は、3冊のうち残る1冊、『いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 』(池上彰・的場昭弘氏共著:2020/12/30刊)を取り上げる予定です。

また新刊書に入ると思いますが、『正義の政治経済学 (朝日新書)』(水野和夫・古川元久氏共著・2021/3/31刊)を入手しましたので、こちらも近々取り上げたいと思っています。
<暴走する資本主義・民主主義>とか<資本主義を問い直す>という表現が目に入り、興味関心をそそられています。

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