『人新世の「資本論」 』(斎藤幸平氏著:2020/9/22刊)に絞ってのシリーズ。
「地質学的視点からの定義で、人類が地球を破壊し尽くす時代」を意味する「人新世」をタイトルに用いているように、本書の軸となるテーマは、資本主義がもたらした気象変動がもたらす地球環境の危機、敷いては地球滅亡の可能性です。
そしてもう一つは、「資本論」としているように、資本論で認識されているカール・マルクス(1818-1883)の思想の見直しを、その気候変動と結びつけて行うことです。
新マルクス論と言ってよいかと思います。
そして最後に、脱成長によるコミュニズムの実現の提案に至ります。
これまでは
◆ 帝国的生活様式、グリーン・ニューディール、気候ケインズとは:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-1(2021/4/25)
◆ なぜ今マルクスか、「人新世のマルクス」:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-2(2021/4/27)
◆ 資本主義と同根の左派加速主義大批判:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-3(2021/4/29)
最終回に当たる4回目は、第7章<脱成長コミュニズムが世界を救う>、第8章<気候正義という「梃子」>を題材として、人新世の「資本論」がめざす世界、社会を確認し、その評価のまとめを行うことにします。。

世界を救う脱成長コミュニズムに必要なものとは
第1回目の
◆ 帝国的生活様式、グリーン・ニューディール、気候ケインズとは:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-1
の中で、<平等を実現するうえで、通らなければいけない4つの未来の選択>として、
1)気候ファシズム
2)野蛮状態
3)気候毛沢東主義
4)X
の4つを挙げていましたが、最後の「X」が、脱成長コミュニズムでした。
危機が本当に極まると、強い国家も機能しなくなり、結局「野蛮」か「X」のどちらかとなる。
当然、野蛮状態ではない選択が必然であり、それが「脱成長コミュニズム」ということになるわけです。
トマ・ピケティの社会主義転向を評価しつつ
『21世紀の資本』で一躍時代の寵児となった、トマ・ピケティ。
ここで彼が出てきます。
彼は当初の著では、行きすぎた経済格差を批判し、その解決策として、累進性の強い課税を行うことを提唱するリベラル左派とされていました。
しかし、2019年発行の『資本とイデオロギーCapital and Ideology (English Edition)』では、「飼い馴らされた資本主義」ではなく、「参加型社会主義」をはっきりと要求するようになっていると評価します。
そこでは、労働者による企業の「社会的共有」と経営参加の要求、すなわち、労働者が自分たちで生産を、<コモン>にとってのキーワードである「自治管理」、「共同管理」とすることの重要性を主張。
晩年のマルクスの立場に近いというわけです。
しかし、ピケティにおいては、脱成長を唱えるまでには至らず、租税という国家権力に依存することで、むしろそこから遠ざかると言います。
斉藤氏から見れば、ピケティの限界が見て取れることにあるのでしょうか。
労働、生産の場から変革が始まる
そして、以下のように、20世紀から21世紀の(?)マルクスへの再評価・再確認が行われます。
資本の無限の価値増殖を求める生産が、自然本来の循環過程と乖離し、最終的には、人間と自然の関係のうちに「修復不可能な亀裂」を生む。
挑発的に言えば、マルクスにとって、分配や消費のあり方を変革したり、政治制度や大衆の価値観を変容させたりすることは二次的なものでしかない。
肝腎なのは、「労働と生産の変革」なのである。
生産という場はコミュニティを生み出し、それがより大きな輪へと広がっていくことで、社会全体にも、大きなインパクトを与える力をもち、労働から生まれる運動は、最終的に政治さえも動かす可能性も秘めている。
すなわち、そこで重要なのは、ライフスタイルの次元での「帝国的生活様式」ではなく「帝国的生産様式」の超克となる。
しかし、気候変動に対峙する政治は、資本に挑まなくてはならず、その政治の実現には、社会運動からの強力な支援が不可欠である。
ただ待っているだけでは、「人新世」の危機に対処できる政治は、決してやってこないが、そもそも待っている必要などなく、私たちが先に動き出そう。
経済成長が減速する分だけ、脱成長コミュニズムは、持続可能な経済への移行を促進する。
しかも、減速は、加速しかできない資本主義にとっての天敵。
無限に利潤を追求し続ける資本主義では、自然の循環の速度に合わせた生産は不可能。
ゆえに、「加速主義」ではなく、「減速主義」こそが革命的なのである。
とし、そのためになすべき、以下の提案に至ります。
脱成長コミュニズムの5つの柱
そして、脱成長コミュニズムへの跳躍に向けて、なすべき5つの課題を提起します。
1.使用価値経済への転換
「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する
2.労働時間の短縮
労働時間を削減して、生活の質を向上させる
3.画一的な分業の廃止
画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる
4.生産過程の民主化
生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる
5.エッセンシャル・ワークの重視
使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視する
上記のうち、「使用価値」について、確認しておきます。
1980年代以降、新自由主義は、社会のあらゆる関係を商品化し、相互扶助の関係性を貨幣・商品関係に置き換えてきた。
この商品化によって付けられたのが「金額化」された「価値」である。
すなわち、資本主義の第一目的は「価値増殖」であり、「使用価値」(有用性)や商品の質、環境負荷はどうでもよく、そこでの「生産力の増大」は環境破壊に繋がり、社会の再生産にとって本当に必要なものは軽視される。
「使用価値」を無視した生産は、気候危機の時代には致命的となる。
食料、水、電力、住居、交通機関への普遍的アクセスの保障、洪水や高潮への対策、生態系の保護などやるべきことは多いからこそ、「価値」ではなく、危機ヘの適応に必要なものこそが優先されるべきなのだ。
次に、エッセンシャル・ワークについてですが、社会の再生産に不可欠な、使用価値を生み出す労働である「エッセンシャル・ワーク」について、少し書き加えます。
ケア労働は、社会的に有用であり、低炭素、低資源使用でもあり、経済成長を至上目的にしなければ、男性中心型の製造業重視から、労働集約型のケア労働を重視する道が開ける。
エネルギー収支比が低下し、経済減速の契機ともなる。
また、世界のあちこちでケア労働者が資本主義のの論理に対抗して立ち上がっている。
そして、そうした動きに加え、「ブエン・ビビール、良く生きる」という概念での各地での活動が、国をも動かす可能性を持ちつつ、このコミュニズムの萌芽が、気候変動の危機の深まりとともに、より野心的になり、21世紀の環境革命として花開く可能性を秘めるに至ったことを主張します。
その、より具体的な活動事例を、最終章<気候正義という「梃子」>で収集・提示することになります。

気候正義を梃子とした社会活動事例は、拡散するか?
以上で、提示された「脱成長コミュニズム」の不可欠な理由と、その展開方法の触りの部分が示されました。
最後に、脱成長コミュニズムを実現する方法・活動について、
「自然回帰ではなく、新しい合理性」
をというサブタイトルを設けて、以下のような事例と基本的な考え方を連鎖して展開します。
・恐れ知らずの都市・バルセロナの気候非常事態宣言
・社会運動が生んだ地域政党
・気候変動対策が生む横の連帯
・協同組合による参加型社会
・気候正義にかなう経済モデルへ
・ミュニシパリズム ー 国境を超える自治体主義
・グローバルサウスから学ぶ
・新しい啓蒙主義の無力さ
・食料主権を取り戻す
・グローバルサウスから世界へ
・帝国的生産様式に挑む
・気候正義という「梃子」
・脱成長を狙うバルセロナ
・従来の左派の問題点
・時間稼ぎの政治からの決別
・経済、政治、環境の三位一体の刷新を
・持続可能で公正な社会への跳躍
気候正義とは
気候変動を引き起こしたのは先進国の富裕層だが、その被害を受けるのは化石燃料をあまり使ってこなかったグローバル・サウスの人々と将来世代である。
この不公正を解消し、気候変動を止めるべきだという認識を意味します。
国境を超えて連帯するミュニシパリズム
その中で注目しておく必要があるのが、<ミュニシパリズム ー 国境を超える自治体主義>。
これは、<恐れ知らずの都市・バルセロナの気候非常事態宣言>でバルセロナが呼びかけた「フィアレス・シティ」のネットワークが、アフリカ、南米、アジアなど77拠点に広がっているというモデルを捉えてのもの。
国境を超えて連帯する、革新自治体のネットワーク精神を意味するものです。
またその萌芽から展開へのプロセスは、<グローバル・サウス学ぶ>好例ともしています。
<食料主権を取り戻す>は、コロナ禍で備えるべき食料自給自足社会創造とも結びつけて考えうるものと考えます。

「経済、政治、環境の三位一体の刷新」プロジェクトマネジメントの曖昧さ
<コモン>、私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理こそが、コミュニズムの基盤になるとしてきた。
だがそれは、国家の力を拒絶することを意味しない。
むしろ、インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば、国家という解決手段を拒否することは愚かでさえある。
国家を拒否するアナーキズムは、気候変動に対処できない。
だが、国家に頼りすぎることは、気候毛沢東主義に陥る危険性を孕んでいる。
だからこそ、コミュニズムが唯一の選択肢なのである。
意味を根本から問い直し、今、「常識」とみなされているものを転覆していく。
この瞬間にこそ、既存の枠組みを超えていくような、真に「政治的なもの」が顕在化する。
それこそが、「資本主義の超克」「民主主義の刷新」「社会の脱炭素化」という三位一体のプロジェクトである。
果たして、この壮大なプロジェクトのマネジメントの主体と総体は、いかがなものとなるだろう。
プロジェクトマネジメントも、自治管理、共同管理という名のもとで、たやすく遂行できるものだろうか。
人間のエゴや相反する意見は、すべて、その共同的な社会活動に、無理なく、不満なく包含・包摂しうるのだろうか。
不安と不満を想像することは、三位一体のプロジェクトをイメージすること以上に簡単のような気がするのですが。
「持続可能で公正な社会への跳躍」という想像力は、デジャビュのよう
その三位一体化プロジェクトの基礎となるのが「信頼」と「相互扶助」として、こう結びます。
それがない社会では、非民主的トップトップダウン型の解決策しか出てこない。
新自由主義によって、それらが解体された後の時代にいるゆえに、結局、顔の見える関係であるコミュニティや地方自治体をベースにして信頼を回復していくしか道はない。
現代のグローバル資本主義に対抗すべく、多様なローカル運動が、世界中の運動とのつながりを構築し始めている。
そのような国際的な連帯によって、資本と対峙する経験は、人々にさらなる力を与え、価値観を変えていく。
想像力は大きく広がり、思いつきもしなかったことを考え、行動に移すことができるようになる。
「政治主義」とはまったく異なる「民主主義」の可能性が開けてくる。
ここまでくれば、無限の経済成長という虚妄とは決別し、持続可能で公正な社会に向けた跳躍がついに実現し、閉ざされた扉が開く。
この大きな跳躍の着地点は、もちろん、相互扶助と自治に基づいた脱成長コミュニズムである。
信頼と相互扶助という情緒的な課題の相克は、極めて、難題・難問だ。
古代ギリシャに一つの理想とするデモクラシーの形をイメージすることが可能だが、それ以降、未だに民主主義の真のモデルと評価できる社会、国は見ていません。

25万部以上売れた『人新世の「資本論」』は、世界を終わらせないために機能するか
既に25万部が販売されたという『人新世の「資本論』。
最後は、ほとんど、情緒・情感に訴える表現で終わることになった感が強い新マルクス論。
マルクスの復権・復活を期しても、過去の歴史におけるコミュニズムの呼びかけとさほど変わらない感覚としか受け止めることができなかったのは、私だけでしょうか。
「世界を終わらせないために」というタイトルのあとがきでも、同様の語り口が繰り返されます。
モデルの存在しないコミュニズム実現への取り組みは、完成型が未だない民主主義を語るのと同次元と思います。
気候変動、地球危機を軸に据えてのマルクス新解釈論による、脱成長コミュニズムは、どれだけの人々に社会活動を起こさせうるでしょうか。
賛辞のコメントを寄せた、水野和夫氏、中島岳志氏、堤未果氏、ヤマサキマリ氏は、脱成長のための社会活動に参加するでしょうか。
◆ 帝国的生活様式、グリーン・ニューディール、気候ケインズとは:『人新世の「資本論」 』が描く気候変動・環境危機と政治と経済-1(2021/4/25)
それ以外にも、同書のカバーに以下の著名人のコメントもありました。
<佐藤優氏>
斎藤はピケティを超えた。これぞ、真の「21世紀の『資本論』である。
<白井聡氏>
「マルクスへ帰れ」と人は言う。だがマルクスからどこへ行く?
斎藤幸平は、その答えに誰よりも早くたどり着いた。
理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。
<松岡正剛氏>
気候、マルクス、人新世。
これらを横断する経済思想が、ついに出現したね。
日本は、そんな才能を待っていた!
<坂本龍一氏>
気候危機を止め、生活を豊かにし
余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら。
その道のプロ諸氏絶賛の『人新世の「資本論」」。
今後の影響力に、大きな関心をもっていきたいと思います。
共同体幻想、コミュニズム幻想の立ち位置からの取り組み
私は、異なる視点・観点からの取り組みを、と考えます。
もちろん、行きすぎた資本主義にメスを入れるべきことはいうまでもないことと考えます。
しかし、共同体には、必ず、共同体「幻想」という2文字を私は付け加えて考えることにしています。
その最大の理由は、共同や共同体には、自己抑制を身につけた「個」さえも、抑止、特に排除・否定するリスクを感じるからです。
加えて、その共同体の規模には、自ずと、民主主義やコミュニズム自体を健全に機能させる上での何かしらの限界があると考えるからです。
後者では、「コミュニズム幻想」となります。
そして今回の最後に、個々人の精神構造の違い、行動パターンの違いが、理想とするコミュニズムの維持を困難にする最大の要素・要因になる可能性もあることを付け加えておきたいと思います。
この個々人の「人」の部分を、ある種の「人格」を備えた「社会」や「国家」に置き換えても同様であることも言うまでもありません。
では、「法治」ならぬ「放置」でよいのか。
否。
放置せず、逃避せず、無視せず、自分なりに考え、提案することが、当サイトの目的とするものですから。
なお、気候・環境問題についても、当サイトで継続的に取り上げて参ります。

以上で、4回にわたって紹介・展開してきた『人新世の「資本論」』論を一先ず終わります。
最もお詫びすべきは、斉藤氏による膨大な情報、とりわけ、気候・地球環境危機に関する具体的・現実的事例と多くの研究者・学者の研究内容の紹介を、ほとんど無視するように話を進めてきたことです。
「人新世」をテーマとしているため、本来、その事例をより多く取り上げるべきと思いましたが、結局は、新マルクス論、すなわち新コミュニズム論に焦点を当てたことが、その理由になります。
ご容赦頂きたいと思います。
斉藤氏の考える構想には賛成しかねますが、著述内容には、尊敬の念を強く持つ者です。
ご関心をお持ちの方は、ご一読をお薦めいたします。

最近読んだ以下の3冊の新刊新書を参考にしての、これからの日本の政治と経済について考えるシリーズに、本稿も組み込まれるものです。
序論としての初めの2回の投稿は以下です。
◆ 資本主義、資本論、社会主義から考えるコロナ後の日本の政治・経済・社会(2021/4/19)
◆ 経済重視の左翼対脱経済のコミュニズム:資本主義をめぐるこれからの政治と経済(2021/4/20)
これに、今回を最終回にした、『人新世の「資本論』論が続きます。
・『資本主義から脱却せよ~貨幣を人びとの手に取り戻す~』(松尾匡・井上智洋・高橋真矢氏共著::2021/3/30刊)
・『人新世の「資本論」 』(斉藤幸平氏著:2020/9/22刊)
・『いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 』(池上彰・的場昭弘氏共著:2020/12/30刊)

コメント