
ネロナムブルにはご注意を:衆議院任期満了日まで6ヶ月の今日
昨日2021/4/20、文春オンライン配信の黒田勝弘氏によるレポートが非常に興味深い。
⇒ 文在寅「左翼積弊清算で投獄」の危機…ソウル&釜山市長選惨敗は韓国政権交代の序章である
というタイトルで、仮面大統領文政権がいよいよ苦境の極に入りつつあることを、先日のソウル・釜山市長選惨敗結果を受けてレポートしたものである。
それ自体は、想定内のことで、とりわけインパクトが感じられるわけではない。
しかし、こうしたこのところの韓国の政治動静の確認とは別に、取って置きのことがあった。
それは、「ネロナムブル」という言葉が紹介されていること。
ネロナムブルとは?
「ネロナムブル」は、英語表記では「naeronambul」。
韓国で今話題になっている用語で、これは「自分(ネ)がやればロマンスで、他人(ナム)がやると不倫(ブルユン)」を略したものとのことだ。
韓国通には周知の用語とのことだが、残念ながら、そして少し恥ずかしながら、私は初めて知った。
黒田氏は、「ネロナムブル」をこう解説している。
「積弊清算!」といって、他者には限りなく厳しいが自らには限りなく甘いダブルスタンダードの価値観、つまり偽善や唯我独尊、独善、ゴーマンを皮肉る政治的な“俗語”で、近年、韓国政治によく登場する。
文政権に対する民心の離反の最大原因はこれだったというのだ。
そして面白がっていては不謹慎なのだが、
韓国世論は「ネロナムブルは文政権のおかげでついに国際語になった!」と自嘲している。
と。
同国は、日本以上にジョークが通じる国かもしれない。
以前、 ポン・ジュノ監督の韓国映画『パラサイト 半地下の家族』が、2019年にアカデミー賞作品賞を取った時に文大統領が、韓国の文化の高さが認められ、名前が広く知れ渡ると快哉を叫び、手放しで喜んだことがあった。
その前年、安倍首相時代、是枝裕和監督の『万引き家族』がカンヌ映画祭でグランプリを取った時に、安倍氏がその内容が日本の恥部をさらしたと感じたためか、そんな映画は日本の実態を描いたものではないと腹立たしく思ったためかどうか知らないが、変な面子から祝福どころか何もコメントしなかったことと好対照だったことがある。
文大統領の喜びようは、恐らく、前年日本の是枝裕和監督の『万引き家族』受賞がカンヌ映画祭だったことと比べての自慢もあったのではないかと勘繰ってもいるのだが。
どちらも単純といえば単純。
一国のトップがこういうレベルだということを示す逸話だ。

所変わって、日本では棚上げ族、風土化と増殖中
話を戻して、この「ネロナムブル」。
私は、こういう性向のある人を「棚上げ族」と言っている。
そう。
自分のことは棚に上げて、他人を批判する人々である。
そう。
ヘイトをやる人はその最たるものだ。
そう。
そしてこの棚上げ族は、どこにでもいる。
私もその中に、時に紛れ込んでいるかもしれない。
そう。
何より、日本の政権政党にも、与党国会議員にも、そして無論、野党、野党議員にも。
人間、そうそう清廉潔白の人生を全うできる人はいない。
しかし、こと権力を持つと錯覚する者は、その権力の拠って立つところを冷静に、客観的に自覚認識し、行動する必要がある。
特に、こうした時、まずは過去をしっかり振り返る必要がある。
脛に傷を持たない人も、そうそういるわけではないと思う。
が、その傷の自覚の有無に拘らず、相手があり、その人権に関わる場合、あるいは刑事・民事事犯に抵触する可能性を感じるならば、やはり、これからの社会的活動については、考えるべきということになる。
ただ残念ながら、そうした常識・良識を欠いた人間が、いつまにか政治家として増殖している現実を、ずーっと見せられ続けているのだ。
嘆かわしいことに。
いわゆる「失言」は、決して失言でも失念でもなく、その人の本質・本音が現れるものだ。
うっかりは、そのほとんどは、日常からのことだ。
何気ない一言に、これからの時代、気を付けなければいけない。
加えて、最近では、物忘れが激しい政治家や官僚も激しく増殖中である。
国家公務員としての仕事の記憶を失ってしまう人間が、公務に就いていてはなるまい。
忘れっぽい人は、仕事をしっかり記録しておくべきだ。
記憶力が悪くなっているはずなのに、記録を残さない議員や官僚も増えている。
とても政治や行政を信頼できる国ではなくなっているのだ。
どうしたものか。
金に対する嗅覚と執着力だけがなぜか健在のようだが。

日韓政府似たもの同士?
「クリーンな政権」を強調してきた文在寅政権が実は持っていた「ネロナムブル」体質。
誕生から現状までのその証を、同記事では、順を追って分かりやすく説明してくれている。
その中の一節に、
文政権は後に「プロダクション政権」と皮肉られるが、そうした演出(イメージ作戦)で民心掌握に精を出した。
とある。
長きにわたった安倍内閣とその後継菅内閣の外交パフォーマンスや、やっている感を演出した政治。
日韓、いい勝負というか、どっちもどっちだ。
韓国の方は、熱狂的支持母体があるからこその身内かばいと反日政策のごまかし政治。
日本の方は、国会での絶対的多数を傘に来ての恥も外聞もない振る舞いと忖度システム化による強権政治。

ソウル・釜山市長選惨敗は、文政権のオウンゴール
そして、今回の2つの市長選の結果は、文政権のオウンゴールと現地では言われていると。
「野党がよくやったからではない!」、あくまで与党(文政権)のオウンゴールだという。
そしてまたみんな異口同音に「民心は恐い」といっている。
その民心だが、近年の韓国世論の保革ないし左右の固定支持層は30対30でほぼ均衡し、残り40の中間層の奪い合う構図と。
日本は、批判は高まりはすれども、内閣の支持率は、そう下がってはいない、というか、そこそこの支持率は維持している。
補欠選の不利は致し方ないが、総選挙ではどうだろうか。
元共同通信ソウル支局長、現産経新聞ソウル駐在特別記者兼論説委員である黒田氏の内容の濃い当レポート。
そこでは、韓国の民心を示すキーワードとして、「時代精神」「過去審判」「未来選択」「政権再創出」「左翼積弊清算!」などが文中に散りばめられていることも興味深く読ませてくれる要素だ。
敵方のオウンゴールがあってもファンの応援を勝ち取れない、いつまでもアウェイの野党
日本の政治の世界では、一向に野党の人気が高まらない。
もう、10年近く経つ民主党失政のトラウマが、あまりに大きく、私たちの脳裏から消えることがない不幸があるという不幸を抱える野党は、ある意味可哀そうではある。
しかし、現状を見る限りでは、その不幸を自ら振り払って、プラスに転じさせる方策も態度姿勢も示せていないのだから、不徳の致すところと言えなくもない。
韓国では、オウンゴールがあった与党を、保守野党が確実に自軍の勝利に導くことができるかどうかが問われている。
日本ではどうだろう。
野党国会議員の下世話な話は、与党議員と同様にいつでも出てきているし、結局、与党も野党も同じようなもの、という感覚が私たちに厳然としてある。
結局立場が変われば、仮に野党が政権を取っても、同じような不祥事や恥とすべきことは起きるだろう。
まして、官僚の不始末が露見した場合には、その時の内閣が責任を負わなければいも、考えようによっては不運なことでもある。
こういう感覚で政治や行政を見なければいけない不幸は、悲しいことだ
さてコロナ禍。
長引くコロナ対策の難しさは、だれもが感じており、内閣と政権政党の対応を批判するのも当然ではある。
しかし、これも仮の話、野党が政権を担っていたとしても、そう簡単なこととは思えない。
要するに、どういうときにあっても、何があっても、政権を目指す党は、そして国会議員は、国のことを担う議員としては、相当の覚悟と、しっかりした考えと、ぶれない、ダブルスタンダードにならない生き方、働き方が必要ということだ。
もちろん、自戒をしつつ、書いている。

不倫スキャンダル、バッシングも一種のネロナムブル
ところで、脱線になるが、「自分がやればロマンス、他人がやると不倫」で思い出したのが、芸能人の不倫スキャンダルなどの報道とバッシングの酷さ。
これも、ある種の「ネロナムブル」だろう。
不倫願望を抱く人は、男女ともに多いに違いないし。
すべてに清廉潔白な人がそうそういるわけでもなかろうと思うに加え、他人事に首を突っ込む人のなんと多いことか。
他人のプライバシーレベルへの関心を、もっと自分自身の生き方・あり方や、日常化したさまざまな社会問題等などの方に向ければよいのにと思うのだが、大きなお世話というものだろうか。

甘い日本の政治、内閣に降りかかるコロナと難問難題
元に戻って、韓国文政権の不祥事は、今までのところ、文大統領自身が絡んだり、その家族絡みでのネタはなかったように思う。
しかし、この地日本では、安倍前首相に直接関わる、政権の私物化レベルの多数のスキャンダルや、現菅政権の家族絡みのネタが、堂々とまかり通り、積弊清算を受けることなど何のこと、とされてしまうのだ。
そう考えると、極端ではあれ、韓国の民心の示されかたと、その帰結は、ある意味まっとうなことと評価すべきなのかもしれない。
再度の緊急事態宣言が発出される一方、米国主導での対中関係の困難さ、厳しさが、危機意識の希薄さと鈍感さが常態化していた体質・体制をそのまま引き継いだ菅内閣にのしかかっている。
野党への脅し文句ともしていた解散カードも、未だに不透明な東京オリンピック・パラリンピック開催問題も含め、切る機会を掴めないまま、短期政権化、短命内閣、レームダック化に向かっているという噂も真実味を帯びてきている。

10月21日衆議院任期満了まで6ヶ月:われわれ国民にも課せられた難問難題に、過去審判と未来選択にどう立ち向かうか
衆議院の任期満了日2021年10月21日まで、残すはちょうど半年、6ヶ月。
日本においての「時代精神」「過去審判」「未来選択」は、どのような方向に向かい、われわれの民心は、どんな選択をするだろうか。
本来、当にオウンゴールで、痛手を被っているべき自民党だが、野党の徳不足とコロナ対策の失敗の連続波で、多種多様の総失点がかき消されているかのようだ。
中国には経済を、米国には安保を人質に取られた日本。
どちらが政権を担っても、厳しい時代である。
そのことを多くの国民が感じているのだが、望ましい選択肢が、政治と国政選挙に存在しないことが、この国の根本的な問題なのだろうと思う。
社会を変える。
政治を変える。
これを皆、われわれ国民の責任としたところで、明確な指針を示すことができないのも事実。
しかし、時間は過ぎていく。
総選挙が終わっても、社会の営み、コロナ禍を契機とした社会システム改革のニーズは本来、一層高まるはずだ。
結果の予想を今してもどうなるわけでもなく、どんな結果が出ようとも、改革の取り組みは、一層強くすべきことは
認識できる。
継続は単純に力にはならぬが、方法を変えること、視点を変えることで、改革を現実のものに近づけることは可能になるだろう。
6ヶ月間に期待できることもそう多くはないが、韓国の振りを片目で見つつ、わが国の振り、あり方をしっかりと考え、微風でも起こりうるように、まずは5月の風を心地よく感じることができるよう、時を過ごしていきたい。
しかし、残念なことに、GWが緊急事態宣言期間になってしまった・・・。

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