1. HOME
  2. NOTES
  3. Notebook
  4. 「普遍的Universal」には気をつけて。ヒゲダンUniverseではありません
Notebook

「普遍的Universal」には気をつけて。ヒゲダンUniverseではありません


昨年の終わり頃から「普遍的」という言葉にどうにも違和感を覚えてしかたありません。
当サイトで以前、「次世代に伝えては、教えてはいけないNGワード」というシリーズで、「真摯」「遺憾」「説明責任」「任命責任」という4語を取り上げたことがありますが、そういうグループに組み入れる性格のものでもありません。

紳士は「真摯」という言葉を軽々しく使ってはいけない:次世代に伝えては、教えてはいけないNGワード(1)
お詫びの言葉ではなかった「遺憾」の真意は?:次世代に伝えては、教えてはいけないNGワード(2)
求める「説明責任」、意味不明?:次世代に伝えては、教えてはいけないNGワード(3)
「任命責任」の解釈の違いと喜劇模様:次世代に伝えては、教えてはいけないNGワード(4)(2020/3/28)


普遍的なるベーシックインカムを現実に見ることがないゆえの「普遍」


きっかけを考えてみると、やはり、昨年ずっと追いかけてきたベーシックインカムについて、ネットや書籍で「普遍的」という文字を見ることが多かったことにある、そう思います。

まずは、UBI、Universal Basic Income という用語をベーシックインカムに関する書籍で必ずと言っていいくらい、一応は見ます。
ユニバーサル・ベーシックインカム、普遍的なベーシックインカムです。

一応は、としたのは、UBIとBIの区分、使い分ける理由がどうも曖昧なため。
私なりに結論づけると、実際にあるべき形での完全な、無条件で平等に支給するベーシックインカムを普遍的BI、すなわちUBIというのだろうと。
しかし、実際に行われている、あるいは行われたとされるBIは、ごくごく限定的で、曰く、部分的BIに過ぎない。
また諸説提案されているBIも、どうも「普遍的」と呼べるレベル・内容のものではなく、条件付きであったり、批判・非難の対象となるもので、UBIとは呼べないもの。

要するに「普遍的」なものは現実的に見いだせず、BIと認めるに足るものは現れていない。
そんなところではないかと、いい加減なところに結論を落ち着かせます。

他を寄せ付けない、議論無用の匂い

一方、普遍が浮遊している感、とは別に、自信満々でベーシックインカムの「普遍性」を主張する論者がいます。

基本的人権を「普遍」とし、そこから、基本的人権としてのベーシックインカムが「普遍的」なるものと正当化し、導入を主張する論者です。

その人をSS氏とし、同氏が主宰するFacebookグループ内での投稿を見ると、こんな表現があります。

デモクラシーやベーシックインカムというのは、人間の本性に根ざした普遍的なもの。誰かが発明したものでもなく、発展にリーダーもヒーローも不要だ
理解の共有だけがポイント(2020/12/13 )

ユニバーサル・ベーシックインカムが実現すると、誰かを養うという概念がなくなり、人はどう完全に自由になり、あらゆる人と対等に接することができるようになる。これこそ大事なポイン(2020/12/18)


どうでしょうか。
こう断言できることは素晴らしいが、共感を得ることができるとは思えません。
そこでは、同氏が「普遍的」とするベーシックインカムは、唯一無二のものであり、種々条件がつく部分的BIはすべて否定されています。

ならば普遍的なBIが根ざす人間の本性も普遍性を持つだろうから、とうの昔にUBIは実現していなければおかしいのですが。

実現しないのは、普遍的な基本的人権を理解しない、できない人間が悪い、ということになって、あるいは、されています。
なので、SS氏は、彼の言うところのUBI以外の条件付きBIはすべて否定し、UBIによる現金給付は、財政にも金融にも、政治にも無関係で、唯一憲法にUBIの支給を書き込まれることで実現するとします。
なぜならそれが「普遍」だから。

もうこうなると宗教の世界です。
妄想・盲信の域に達しているとさえ言える。
UBIは、神の領域で、神が人に、基本的人権の一つとして授けられたことになるのです。
「普遍的BI」は、その意味や実態などは議論の対象とならず、神という普遍と一体化しているわけです。
不可侵なのです。

同Facebookグループを見ると、どんな意見の書き込みも否定され、ムダなこととされ、排除されるのです。


種々の領域にある「普遍性」

しかし、この神とされたUBIだけが「普遍的」なものに気をつけるべきとする理由ではありません。

簡単に「普遍的」という場合、そしてなにげなく「普遍的」と表現している場合、ほとんどは「普遍的」なる意味を深く考えずに、発しているのではと思います。
言っていることは「普遍的」なことだから「間違いない」ことだとして。

宗教の排他性による普遍性


例えとしては適切ではないかもしれませんが、宗教について考えてみます。
個々の宗教は、個々の中では「普遍的」であり、この場合の「普遍的」は、ほぼ「絶対的」に等しいですね。
本質的には、宗教は「排他性」を持ちます。

しかし、世界宗教者平和会議Religions for Peace)という組織があります。
1970年に設立されたこの会議は「諸宗教間の対話と相互理解から生まれる英知を結集し、平和のための宗教協力を行う」非政府組織(NGO)。
人類・人間の「普遍的」な希求である「平和」を目標とする組織と言えます。
宗教の違いを乗り越えて、です。
こうなると「宗教自体が一つにまとめればよいのに」と思いますが、そうは絶対になりません。
それぞれが「普遍」と認識しているはずです。

すなわち「普遍」は、多様にあるわけです。
その多様、それぞれが考える「普遍」があるわけで、普遍の統合は「普遍的」にムリのようです。

しかし「平和」は、普遍的な希求とすべき「普遍性」を持つものであることは疑う余地はありません。



「普遍的」「普遍」の意味


漠然と「普遍的」について考えてきました。
折角ですから、ネット検索して、
WURK(旧英語部) (eigobu.jp) というサイトで、
「普遍的」の意味と使い方、読み方、類義語 / 対義語、「一般的」との違いを解説!
という記事を見てみました。
そこから一部を転載します。

「普遍的」の意味は
「ある範囲におけるすべてのものに当てはまるさま」「極めて多くの物事にあてはまるさま」「すべてのものに共通しているさま」
とありました。
なるほど、やはり「ある範囲」における、という条件がついていました。

「普遍」「あまねく行き渡ること」「すべてのものに共通に存すること」

「的」は「その性質を帯びる、その状態をなす意」。
「普」も「遍」も 「全体に行き渡ること」を意味。
「普」は、「行き渡るが、100%ではない」を表し、
「遍」は、「100%(すべて)行き渡る」を表します。

「いつの時代でも、どこの国でも、誰でも当てはまる」のが「普遍的」で、
身近な数人が何かが共通しているという程度では「普遍的」とは言わないとありました。
繰り返します。
すべての時代・国・人に共通していること」が「普遍的」なのです。

付け加えて、「一般的」の意味は、
「ある部類のものに共通であるさま」「ある部類のものの大部分に共通であるさま」で、「すべてではないが、物事に広く当てはまること」
対して、「普遍的」「すべてのものごとに当てはまる」ことです。

「普遍的」の最も直訳的な英語は「universal」。
もっと一般的な単語だと「general」「worldwide」とありました。

さあ、そうなると、「すべての時代・国・人に共通している」ベーシックインカム、ユニバーサル・インカムの実現は可能か、そして、それ以前に、「すべての時代・国・人に共通している」UBIとはどういうもので、現実的に存在するものなのか、となります。

SS氏は、この問に対してどう応えるのか。
唯一考えられ答えは、「普遍であるゆえに存在し、存在すること自体が普遍的であるから」。
それしかないですね。
人間の普遍的な本性に存するのですから。

ということで、「普遍的」及び「普遍」論争や解釈問題は、普遍的に永遠の課題とすることで、宇宙 Universe に、浮遊し続けることになります。

因みに、Universal 普遍的 の名詞「普遍」は、Universe ではなく、Universality でした。
ほとんど同じスペルなので、普遍と宇宙は、同一感覚的なものかと思っていたのですが、今回違うことを知りました。
語源は同じなので、通じてはいるでしょうけれど。

「普遍的」Universal について明日書こうと決めていた昨晩、Mステで、Official髭男dism が、新曲 ”Universe” を歌っていました。
なかなか良い曲を作るもんだ、と感心しつつ、明日このUniverse について書くんだ、とその偶然をふと感じたのですが、宇宙は、そこには繋がっていなかったのです。
一般的な、勘違いにしか過ぎなかっただけのこと。
(恥ズー!)

日本独自のベーシックインカム、ベーシック・ペンションは「普遍的」か?



ということで、話は戻って。
私が提案する日本独自のベーシックインカム、ベーシック・ペンションは、普遍的なベーシックインカムとは異にし、かつ部分的BIでもありません。
但し、それが実現し、日本国民の生活に根付き、日本の文化となることで、日本においては「普遍的」なるものになれば、と思い願うものです。
そして、もう一つ大きな願いとして、その日本において「普遍的」なベーシック・ペンションのシステムが、世界各国に移転され、それぞれの国において「普遍性」をもつ制度・文化になれば、とも。


と、ここで終わりではありません。
別の記事のテーマに繋げる目的もあって、日本国憲法にも「普遍」という言葉・表現が用いられていることに、触れておきたいと思います。

日本国憲法にある「普遍」


日本国憲法の前文に、こうあります。

そもそも国政は、
国民の厳粛な信託によるものであつて、
その権威は国民に由来し
その権力は国民の代表者がこれを行使し、
その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


「人類普遍の原理」。
ある意味、下世話な表現ですが、物凄い「普遍」化表現です。
理想と言えば理想。
こう表現すると、そうではない人類があると、そこに駆けつけて正さなければいけない義務がありそうな感じさえも受けてしまいます。
これも大げさな表現ですが。

でも「普遍」と言うからには、ここまでも包摂し、意味することを覚悟し、自覚しておくべき。
そう思います。
そういう意味では、素晴らしい憲法ではある、と言うべきでしょうか。

しかし、その前に、どうしても気になる表現、用語があります。
それは何か、どれか?

ここでは回答せずに、憲法について、もう一つ気になっている表現と合わせて、別の機会のテーマとしたいと思います。

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


写真素材素材【写真AC】
2022年8月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  
無料イラスト素材【イラストAC】

おすすめ記事






















ピックアップ記事