人間の精神構造は変わることがなく、歴史は繰り返され、社会が大きく変わることも困難

現役世代ライフ

変わらぬ個「人」の精神構造と行動パターン

時代が変わり、世代が変わっても、人種が違っても、国籍が異なっても、「人」の感情系や精神構造、そしてそれが引き起こす行動パターンには、そう大きな変化・違いはありません。

例えば、喜怒哀楽で表現される情緒系の思い・感情とそれによる行動。
自分中心の考え方とその行動、他者への考え方とその行動。

泣き、笑い、喜び、怒り、悲しみ
他への攻撃、排他・排斥、脅し・恐喝、暴力・殺人
妬み、嫉み、騙し
憎悪、嫌悪、反感

愛情・愛惜、憐憫・同情・共感・好意、排他・排斥
恋愛・友愛・博愛、嫌悪・憎悪
感謝、反感

こうした心情的な動きを自身の内のモノ、コトと留めるか、抑制するか、我慢するか、外に表すか、衝動に任せるか
心の内が理解できたり、できなかったり
いずれにしても、何かしらの内的・外的処理がなされ、不行動も含め行動化される。

日々の営みは、そうした感情系・情緒系の変化とそれに拠る行動の有無、行動表現のあり方の組み合わせ、連続と言えます。

そうした一人ひとりが、生き、生活する時代や社会の状況は、確かに異なりはします。
しかし、そうした異なる背景・状況においても、人、人間の判断や行動は、人、人間の限られた感情系に基づくもので、ある意味パターン化していると言えます。

そうしたことから、過去経験や歴史から学ぶべき、とよく言われますが、学び方、受け止め方は、十人十色、千差万別。
特に悲劇や悲惨な出来事、事故、災害、事件などが起きた場合、その声はことさら強くなります。
しかし、私もですが、多くの人は、忘れます。
もともと関心がない人もいるでしょうし、それどころではない、という人もいます。
伝えるべきとされた悲惨な出来事や失敗体験などは、法律や記録・記念や語り伝えなどにより、その事実や対策などが継承されていきます。

しかし、人は必ず死を迎え、社会を構成する人の顔ぶれが代わっていきます。
学ぶべき過去の出来事や教訓などは、一応語られたり、目にしたり、耳にしたりすることはあっても、当然、それらに対する意識や記憶は薄れていきます。

ゆえに、そうした人の営みは、時代が変わっても、異なる国であっても、思考と行動パターンは過去と大きく変わることなく、同じようなことが繰り返されます。

事件も事故も、犯罪も。
感動も、共感も。
悲劇も、惨劇も、非情・悲惨な出来事も。

変わらぬ精神構造、喜怒哀楽システムに拠って生きる「人」の行動パターンがその時代、その日々にあり、起こります。
特に意識的に、時に無意識に、衝動的に、理不尽に、非人間的に。
非人間的人間の感情も、行動も、人間の情緒系の行動パターンの範疇にあるのです。

古代も、中世も、近世も、近代・現代も、そして恐らく未来も。
AI社会が実現しても。
科学技術の開発・進化・進展があっても。
むしろ一方は変わらぬまま、他方は留まることなく。
そこに一層のギャップが生まれ、「人」の適応力が追いつかなくなる。
そこで新たな、しかし本質的には変わらぬ、社会問題が発生するか、多様化・拡大化する。
(かもしれない。)

「個」「人」の集合としての「社会」の行動パターンの類似性

こういう共通性をもつ「人」によって構成される「社会」は、やはり総体として、同様の性向を繰り返して時間と時代を引き継いでいきます。

それを前提として、民主主義や社会主義、共産主義などの思想やさまざまな宗教や哲学があり、人種・民族などの要素が絡み合い、国家・領土・土地・地域という基盤によって立つ事情・状況のもと、人は行動し、生活基盤とする社会と繋がっています。
繋がり方に違いや強弱を当然孕みながら。
いわゆる「多様性」がキーワードになります。

それゆえに、一つにまとまることがいかに困難かを考えさせられます。
例えば、民主主義と簡単に言っていますが、その完成形としての社会も時代も実は誰も経験がないのです。
私は「永遠に実験としての民主主義」という理由がそこにあります。
社会主義にしても共産主義にしても、社会民主主義と表現しても、どれが、何が完成形かは分からない。
活字化したものがあるかもしれないが、リアルではない。
実際それが理想郷なのかも分からない。

完成形が分からないから、目の前にある訳ではないから、一つに目標を決めて、すべての人々がそこに向かうという合意形成は、とてつもなく難しい。
そうこうしているうち、どうこう言っているうち、時間が経ち、日が改まり、年が改まり、日々の生活を繰り返し、社会的なもの、政治的なものへの関心や関わりも希薄になっていく。

社会は、こうして、さして変わることなく、歴史を刻み、過去を増やし、忘却することさえ気にかけることなく。

政治・行政を変える社会システムが機能しない社会を放置・継続させている「人」


政治家も、内閣も、官僚も、公務員も、結局は職業人。
飯を食うためにその仕事をこなすことが日常であり、総体としての「社会」をどうするかは、飯を食うための仕事と緊密に結びつく課題になることはない。
公務員とは何か、どうあるべきか、などは、彼ら彼女ら個々人の心の内を確かめる仕組みがあるわけでもない。
確かめても致し方なく、そういう社会システムが過去を増やしていく。
一応の歴史の中に。

その機能しない社会システムの放置・継続を自作自演している「人」が形成している「社会」が国家です。

変えようとする個の集まり、変えることを要求する個の集まりの社会化への高いハードル


さまざまな声や動きが、情報化されている社会。
しかし、ことは簡単には進まず、望ましい社会が次第に形成されている状況も見ることができない。

今日、SNS上の私の投稿に、「国民」の声に耳を傾けない財務省主計局を「売国奴」と批判するコメントを加えてきた方がいました。
ご自分が「国民」のひとりとして「国民」を代表する、「国民」の代弁者と見立てての発言になるわけだが、そんなことを考えたり、そこのに関心をもつ「国民」は、一握りもいないことは、意識にはないようです。

日々WEBサイトで書き、SNSに転載してはいる私ですが、「何か」や「国民」を代表している気はさらさらありません。
その自覚のもと、変化しない社会を変化させるためには、「国民」とする人々の数を多数、マジョリティにまで持ち込むことが絶対必要と認識している。
その数をもって新しい政治と行政に変えうる政治勢力を形成するしか方策はない。
随分気が遠くなる話だが、その認識をもって、多数化をめざす活動を始め、継続するしかないと考えています。

しかし、そうした認識をもち、それを日常生活の中の一行動に組み入れることができる人を増やすことさえも難しいこと。
仮に共感を得られたとしても、その行動の対象として提示できる、提示すべき方法・方策を準備しなければいけないでしょう。

精神構造が変わらない「人」の意識や行動を変えるのは、仕事上の改善や商品開発や、技術開発とはまったく勝手が違う。
というか、至難の技。
変わらない社会を変えるためには、共感者を募るだけではなく、その共感を具体的な行動に切り替える、行動を起こしてもらう方法や対象が必須。

そのために今できることは唯一。
活字で、共感を得、活字で、方法や対象を探り、探り当て、活字で訴え、一つ一つ、一人ひとり、確かなものと人を積み重ね、増やしていくしかないでしょう。
代わる世代の継承も可能にしつつ。

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