鈴木亘教授『社会保障亡国論』にみる正解と誤解

社会政策

「政治改革と財政システム改革」シリーズ-

このところ、「政治改革と財政システム改革」シリーズとして、以下を取り上げて来ました。

◆ 菅総理「生活保護がある」、麻生財務相「定額給付金再給付なし」発言が求める政治改革と財政システム改革(2021/1/29)
◆ 「税と社会保障の一体改革」の欺瞞が求める政治改革と財政システム改革(2021/1/30)
公助・共助、公的資金・国家財政から考える政治改革と財政システム改革(2021/2/2)
2030年社会保障制度改革の起点とすべき社会保障制度基本方針大転換による政治改革と財政システム改革(2021/2/4)
鈴木亘氏の社会保障制度論の限界と社会保障制度改革の必然性(2021/2/5)

また、こうした展開において、鈴木亘氏のBI論として
http://basicpension.jp で
鈴木亘学習院大学教授による、財源面からの2021年ベーシックインカム試案(2021/2/4)
を紹介しました。

今回、同氏の『社会保障亡国論 』にある反省と後悔の言を紹介して、私が考える「社会保障制度改革」の必要性・必然性と、シリーズで展開している「政治改革と財政システム改革」への必然的帰結について、述べたいと思います。

なお、前回同様、当記事に紹介する鈴木教授の言は、2014年2月同書発刊当時の状況を下にしてのものです。
ご了承ください。

鈴木亘教授、大正解の指摘

これまで行われてきた政府の社会保障改革論議は、全体を議論することなく、直ぐに年金、医療、介護、少子化対策、生活保護など、それぞれ個別分野ごとに分かれた議論を、厚労省・社会保障審議会の各部会で開始するのが常だった。
そして、それぞれの分野ごとに利害関係者や専門家が集まって、細かい技術的議論や制度論に埋没したり、あるいはもっと露骨に既得権益者間の利害調整に終始するうちに、いつのまにか大きな改革方針は忘れ去られ、現状維持的な小幅な改革にとどまるというのが、「お決まりのパターン」だった。

 すなわち、これまでの政府の改革論議の枠組みは、誰も全体像をみない、誰も将来を考えない、誰も(税を含めた)全体の負担と給付のバランスを考えない、という縦割り行政と近視眼的行動の最たるものと言えます。


ここまでは、前提認識も、指摘部分の認識も、大正解です。
本当に、全体を前提として、あるべき形を追究しない。
すべて関連しているのだから、個別課題ごとに分断して考えていては、無駄な時間とコストを費やすだけ。
公務員である彼らには、コスト概念や責任性というものがないのです。
(システムなどという高尚なものではないゆえに)その習慣的・惰性型仕組みが、だれからも問題と指摘されることがないのです。
本来、マネジメントすべき大臣と総理大臣が、それを指摘し、改革すべきなのですが、輪をかけて、能力も意識もない。
こういう政治・行政が連綿と、まさに持続性を強くまったまま、繰り返され、継承されているのです。

だからこそ、政治改革が、行政改革に先行し、財政システム改革に先行しなければいけないのです。

こうした体質・体制は他の省庁でも、同様です。
そこに内閣は踏み込む意識も、知識も見識も常識も、ないのです。
それが自分たちの仕事という責任感がないことが、与党はもちろんのこと、野党議員にもないと見てよいのです。

税と社会保障の一体改革が可能と考える誤り

そして鈴木氏はこう続けます。

その結果として、社会保障に膨大な財政赤字が生み出され、長年にわたって全く改まらないことも当然の帰結。
その厚労省の「局あって省なし」という縦割り組織や、個別分野ごとに細分化された社会保障審議会の各部会は、「成長するパイ」をただ分け合えば良かった高度成長時代の遺物。
人口が減少・高齢化し、「パイが縮小」する時代にこのようなやり方が機能しないことは明らかだが、一度完成された仕組みを変えることは、実に容易なことではない。

「社会保障と税の一体改革」や、官邸直轄の「社会保障制度改革国民会議」を作ったことは、その仕組みから抜け出る一つのチャンスではあった。


この認識がやはり、というか当然というか、非常に甘かった、というか完全に見誤った、間違った。

パイが縮小する財政の中で、再分配や負担の変更を行えば、全員が満足・納得するようになることなど、元々あり得ない。
そう考えるべきだったのです。
「社会保障と税の一体改革」というテーマ設定そのものが、元々ムリ筋のテーマ。
世代間抗争必然の装置を提供することになったのです。
「改革」などできるわけもなく、「改悪」にしかならない、トレードオフの手法しか選択できないことが、なぜ大学の専門分野の学者にわからなかったのか。
そして、種々の会議に招聘された専門家、何割かは常連メンバーの学者、は、そうした会議メンバーに選ばれることが自分のステイタスを上げることと認識しているお目出度い人々。

こういう政治行政組織に、日本はズーッと引きづられてきているのです。

「仕組みから抜け出るチャンス」などとよくも言えたもんだと。
大甘のスーさん、という感じです。

いきなり、なんですが、官邸にその能力や責任感などあるはずもない。
かれらの意識は、権力を持つ、権力を集中させるということだけ。
あとはたまに号令を出すだけ。
ビジョンなどない、マネジメント能力も、当然ながらガバナンス能力などあろうはずがない。
厚労省官僚など、どうせ大臣など馬鹿にしているはず。
適当に忖度ぶりっ子していれば、総理も官房長官も、厚労相も、そのうち代わるのですから。

やはり遠因を探ると、安定し、信頼できる内閣ができる可能性も、その頭に立つリーダーの存在も期待できない持続性が連綿と続いていることにたどり着く、というか、悲しいかな、それが日本の力、レベル、姿ということに。

かの「社会保障国民会議」。
国民が誰を、何を意味するのか全く不明なこの会議。

平成24年11月から平成25年8月にかけて20回にわたり会議が行われ、報告書が平成25年8月6日にとりまとめられました。その後、平成25年8月21日、同会議は、社会保障制度改革推進法の施行から1年間の設置期限をむかえ、廃止されました。
 なお、同会議の廃止に伴い、同会議に関する業務及び同会議が保有する行政文書については、内閣官房社会保障改革担当室に引き継がれております。

と恥じらいもなく、内閣官房のホームページに残されていました。

(参考)
「社会保障制度改革国民会議 報告書(概要)
~確かな社会保障を将来世代に伝えるための道筋~」

※この程度の内容は、会議を行わなくても、優秀な官僚一人で、3ヶ月間ぐらいでまとめられるものと感じます。
その内容を受けて、現在どういう状況にあるか、自ずとその評価は分かります。

かの鈴木氏は、こうも言っています。

トップダウンでしか改革できない

そしてこう続けます。

しかし、問題は、それができる有能なリーダーはめったに現れないということ。
これまでの歴代政権の例を考えても、そのようなリーダーが現れ、しかもトップに上り詰めることは、実に至難の業と言える。

しかし、だからと言って、ひたすらに奇跡が起きることを待って、何もすることがないというのも芸がない。
現在の我々にもできることとして、
1.そのようなリーダーが選ばれやすい環境をつくること
2.たとえ行政経験の少ないリーダーであっても、改革の意志さえあれば事が進められるように、改革実行の「仕組み」を準備すること
の2つがある。

この発言で、今度は、同氏のよほどの甘さにがく然としてしまうのです。

リーダーが出るか出ないかも、選べるか選べないかも国民の責任???

そしてお鉢がこちらに回ってきます。

まずはじめに、社会保障改革に強い意志を持ったリーダーが選ばれるには、国民自身が社会保障に対して正しい知識や情報を得ていることが重要。
特に、その維持可能性や世代間不公平に対して、国民の多くが強い危機感を持っていて、改革を叫ぶリーダーに共感しなければ話が進まない。

あとは省略しますが、そうした情報や知識をえることが難しい要素・要因が、厚労省を含む種々の既得権者の抵抗で困難とまで言っています。

開いた口が塞がらない・・・。

そこで出されたリーダーのサンプル?が、小泉純一郎や橋下徹となれば、もう、正常な神経を失っているのでは、と・・・。

しつこいようですが、同書<あとがき>にある一節を最後に引用します。

 前著『財政危機と社会保障』を刊行したのは2010年9月のことで、3年半経った。当時民主党の菅政権が「強い社会保障」などと称して社会保障のバラマキ拡大を「成長戦略」と位置付け、マニュフェストにもなかった消費税引き上げを唱えだしたことに対して、強い危機感を覚えたことが執筆のきっかけだった。
(略)
(種々警鐘を鳴らしたこの書は)幸い、多くの読者層を得て、これまでに筆者が執筆した中で、もっとも広く読まれるものとなった。
 そして(2014年の)現在、本書の基本的なメッセージは、前著とそう変わらない。むしろこの間、さらに進んだ少子高齢化と財政改革、間違った改革、現政権の社会保障への無関心と現状放置の結果、事態はさらに悪化している。


そして同書刊行の2014年3月20日から既に、7年近く経とうとしています(2010年からは11年)が、同書の警告にも拘らず、貧困・格差の拡大、コロナ禍による問題の拡大と一層の顕在化は、同氏の主張・提案自体にも問題があったことを示している。

と、そこまで申し上げる気はありません。

ただ、繰り返しになりますが、基本とする考え方、「税と社会保障の一体化」とそれが意味する「財政規律を守る」という、一見もっともらしく、常識らしく思わせる考え、政策そのものにムリがある、ムリがあったと結論をだすべき。
そう思うのです。

ただそれは、鈴木氏にのみ向かって言うべきことでは当然ありません。
また、自公政権にのみにでも当然なく、むしろ野党、自称リベラルにこそ向けて発信し、理解を求め、どういう考察をすべきか、選択をすべきか、真剣に考えるべきと主張したいことなのです。

変革は、女性新党の創設と政治の場での多数の女性国会議員の活動で:10年がかりでの実現目標

と、結局言いたい放題になってしまいました。

そんなに言うならば自分がやれば。
とすべきとは常に思う者なのですが、私には到底ムリと自分を知っていますので、代替案ではなく、本気案、真剣案を昨年から提案しています。

女性新党の創設、その前段におけるカウンターデモクラシー活動をネット上で展開する「平和と社会保障と民主主義を考える女性の会」の設置と参加者募集。

「ネットサロン・平和と社会保障と民主主義を考える女性の会」

それにこだわる気はないのですが、そのような形のもの、活動基盤があればと考えます。

既成政党のうち、そうした長期ビジョンを持ち、政治システム改革の必要性を感じ、プロジェクトマネジメントを10年スパン、3サイクルの30年間継続して遂行できる世代継承型の政治業務を担ってくれる組織ができてくれば、それももちろん望むところではあります。

コロナ禍にあって、もちろん今どうするかへの対策も不可欠です。
しかし、アフターコロナ対策が、2~3年程度をイメージしてのものしか描かない政治・政党であっては、このコロナの教訓の本質は、やり過ごされることになるでしょう。
それは、選挙だけ、政局だけを意識してのことに転換されるからです。

鈴木教授に恨みはありませんが、そろそろ発想の転換、行動の転換をして頂かないと、研究者生活もさほど有意義なものとは言えなくなってしまうのでは、と思うゆえに、言いたいことを言わせて頂きました。

女性新党による政治改革、それに基づく財政システム改革。
2030年までに基盤が形成され、2040年までに軸となる社会保障制度改革が実現し、2050年には、ほとんどすべての国民が安心して暮らせ、希望をもって生きていくことができる社会が実現している。
女性がその役割を担うことが最も望ましいと考えるのです。




次回は、その女性新党創設の準備に当たってのリーダー役に、と心から念じている団塊の世代上野千鶴子さんが、団塊世代ジュニアの雨宮処凛さんと行った対談を書にした『世代の痛み 団塊ジュニアから団塊への質問状』(2017/10/10刊)を読み終えたので、これを参考に考えるところを、と思います。

言うならば、上野さんへの「追っかけ」の一環です。

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