
何でも「第三者委員会」の時代:当事者能力・責任能力欠如の大人たち
第三者委員会、モテモテの時代
猫も杓子も「第三者委員会」の時代だ。
そろそろ、<第三者委員会委員受託ビジネス>や、職業としての<第三者委員会委員職>みたいなものが出てきてもよさそうな気もする。
実際に、複数の委員会の委員を兼務している人もいるかもしれない。
いわゆる<良識者>に入る方々には。
嘆かわしいというか、イージーというか、恥ずかしいというか、暇というか・・・。
ケース・バイ・ケースで、いろいろな形容ができる便利機関である。

第三者委員会とその目的
Wikipedeiaによると、
第三者委員会とは、何らかの問題が起きたときに、当事者以外の外部の有識者によって危機管理体制の再構築を迅速、確実に行うなどの目的で問題を検証をする委員会。
とある。
⇒ https://ja.wikipedia.org/wiki/第三者委員会
こうした第三者委員会の委員として弁護士が就くことが多いため、日弁連が2010年に、以下のガイドラインを規定している。
◆ 「企業等不祥事における第三者委員会ガイドライン」
危機管理体制の再構築、とあるが、危機管理のためのあり方を将来に向けて構するというのも実はおかしな話だ。
もちろん、問題の因果関係を明らかにし、ことの顛末の内容・経緯、責任の所在などを調査結果としてまとめあげ、報告するのが第一の目的。
そして、その結果から、なにか起こったときの対応方法や組織体制を新たに、あるいは改めて構築することにつなげる。
それももちろんだが、日常的に、さまざまな不祥事や事件・事故が起きないよう仕組みや予防・対策作りこそ求められるものである。
いわゆる、コンプライアンスとガバナンスをかけ合わせたものに当たる。
これも随分前から不可欠なもの、こととされてきたが、なかなか機能しない。
そもそも第三者機関が設置された時点で、もう遅い。
それから時間とコストを掛けて調査する。
普通に記憶は薄れるし、頭のいい人もこういう時に限って記憶にないという。
証拠となるものの隠滅や改ざんのための時間もある。
ガバナンスもコンプライアンスも機能しない組織は、ある意味無法地帯みたいなもので、企業や公的機関において、通常ではありえないのだ。
だから、第三者機関、第三者委員会が必要となった時点で、責任ある立場にあるものは退場すべきと言える。
もしくは、その責任を全うできないのだから、減俸など罰則を適用すべきなのだ。
少なくとも、第三者委員会にかかるコストを、当事者は負担する責任がある。

教育委員会に第三者委員会、そして再調査委員会。
そんなことしてて○○○カイ!?
特にひどいのは、いじめをめぐる教育委員会や校長の対応だ。
若い命を自ら断ったことに対する意識が、教育現場と教育を統括する立場の責任者として著しく欠落しているのだ。
そこに至った過去の日常において、本人が残した何らかの記録・記述とSNSなどの記録を除けば、教育サイドには、ほとんど残っているものはないに等しい。
なんとかやり過ごせれば。
なんとか、切り抜けられれば。
いじめによる自死と思われる事態に至ったときの、多くの各自治体の教育委員会の対応などは、後から必ずと行っていいほど問題になる。
第三者委員会の調査で。
校長も校長だ。
自分の学校に、必ずいじめはあるはず。
そういう認識を前提としてもつべきだろう。
日常的に、目配り・対応を必要とし、実態把握や情報収集をおこなうべきであるはずだ。
教育委員会は、日常的にその管理運営を指導・指示・フォローすべき立場である。
すなわち本来、教育委員会自体が、第三者機能を持って、真実・真相に相対するべきなのだが、当事者サイドとして問題化される立場になってしまう。
<教育>が聞いて呆れるのだ。
委員会の上?横?にもう一つ委員会。
屋上屋を重ねる、並べるなど、そんな馬鹿なことをやっていてイインカイ?だ。

調査に限界の第三者委員会。再調査指示にとどまる第三者委員会答申
そもそも、先述したように、第三者委員会の活動自体が、遅いのだ。
調査の対象となる人たちの記憶や態度は、安定的ではないし、多くは保守的になる。
自分を守ろうとするし、面倒なことに巻き込まれたくないという意識も強くなる。
警察や検察自体でも困難な捜査・調査を、いきなり指名・要請された、縁もゆかりもなかった第三者が、面倒で困難な活動を強いられるのだ。
その大半は、自死を選んだ子どもの両親の憤り、不満からの強い声、抗議・要請に基づくものだ。
親御さんの気持ちを汲み取る情意・想像性を著しく欠いている、教育を職業とする情けない、責任能力もない大人たちがはびこっている社会なのだ。
もしかしたら、先日課題にもした現在の<教育基本法>と<学校教育法>に裏打ちされている行為・行動なのかもしれない。
恐ろしいことだ。
(参考)
◆ 高校教育の多様化を教育の水平的多様性実現の起点に:『教育は何を評価してきたのか』から考える-1

第三者委員会に限界。再調査委員会の設置も
<2016年宝塚市立中2年女子生徒自殺。再調査委でいじめ認定>
市教委の第三者委は2018年、報告書でいじめとの因果関係を認めたが、調査過程で「完全な解明は困難」とし遺族が反発。市が再調査委を設置。
今年再調査委が、自殺に強い関連性がある多数のいじめを認定。
第三者委は調査の中立性を意識し過ぎて遺族の心情に寄り添えておらず「調査プロセスで丁寧さを欠いた」とも指摘。
この生徒が所属する運動部では、前年も別の部員がいじめにより不登校になった事案もあったにもかかわらずである。
<2012年横浜市立のいじめ、2020年第三者委が市教委に再調査要求答申>
2012年小学3年時に、親族が東日本大震災の賠償金をもらっているとうわさされ、金銭を要求されるなどのいじめが継続。中学2年時に中学校に相談し調査したが経緯を調べられず、その後高校生になって市に再調査を要求。
再調査した第三者委が、中学当時のいじめの調査が不十分とし、市教育委による再調査を答申。
以上2件は、今年に入ってからのいじめ問題で設置された第三者委員会に関する報道例の一部である。
どちらもなんと長期間にわたる案件であろう。
いじめを受けた当事者の思いは変わることなく重いが、他方の当事者の記憶と思いは、時間に比例して、いやそれ以上にフェードアウトしていくに違いない。
当事者自身が立場を変え、責任とは異次元の世界・社会にワープしているかもしれない。
公正さを維持するための第三者委員会のはずだが、時間の経過は公正性を保つよりも、責任性をより希薄化し、社会を麻痺させる方向に働く。
客観性を意味する第三者性は、本来、当事者のうち管理的立場にある者自身が保持し、機能させるべきモノ、コトだ。
なにかあれば第三者委員会、逃げ場を失ったら第三者委員会、ひとまず時間を置いてと考えたら第三者委員会。
それは、決して社会において確立された常態ではない。
異常な社会であることを強く自覚・認識し、当事者責任を強く求める社会に改める必要がある。





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