
生身の弱い個人とそのアイデンティティを救えないリベラルの弱み:「リベ敵」から考える-3
『リベラルの敵はリベラルにあり』から考える、個人の生き方と社会の在り方-3
「倉持麟太郎氏著『リベラルの敵はリベラルにあり』から考える、個人の生き方と社会の在り方」と題したシリーズを始めています。
そのプロローグとしての
◆ 『リベラルの敵はリベラルにあり』から考える、個人の生き方と社会の在り方-1
に続いての第2回目から、<第1章 君達は「アイデンティティ」を知っているか>において印象深かった内容の一部を紹介し、考えるところを加えています。
初めに前回
◆ 政治的なるものと日常生活における個人と社会
で日常生活における「政治的なるもの」を取り上げて、個人と社会の関係のあり方と結びつけて考えることから始めたリベラル論。
その最初の段階でのキーワードが、第1章のテーマにあるとおり「アイデンティティ」です。
今回は、その「アイデンティティ」を軸にして考えます。
<第1章 君たちは「アイデンティティ」を知っているか>から-2
政治的なるものに関わる個人のアイデンティティとは何か
初めに、アイデンティティの定義として、以下を示しています。
「その人が何たるか、その人がその人であるゆえん、人や集団をその他の人や集団と差異化する性質」すなわち、その人が何たるかは、他の人との差異により決定づけられるということになる。
ということは、共通項よりも差異、普遍化よりも個別化、ということになる。
そこでは、自分と他との違いを認識すればするほど、強調すれば強調するほど、共通の価値を探るための相互理解、対話、連帯からは遠ざかる。
ということは、多様性を認めること、認識することが、相互理解や対話を遠ざけることになってしまうのか。
なんとも悩ましいことですが、確かに多様性を巡る議論の困難さは、さまざまなニュースや情報を得るたびに日々感じることです。
例えば、今私が悩んでいるベーシックインカムの在り方に関して、さまざまな考え方をしている人々がいます。その人々の個、アイデンティティを尊重すればするほど、共通性、普遍性から遠ざかり、迷路にはまり込む感覚になりそうです。
現実に実感していることです。
筆者はこう例えます。
私はあなたとは性別が違う、人種が違う、世代が違う、家族構成が違う、性的指向が違う、信じるものが違う。
差異によるアイデンティティの確認を繰り返すほどに、結局「あなたとは違う」ことがアイデンティティ形成の本拠地になっていく。
違うところからきたあなたと私。違うところにいるあなたと私。
だとすれば、ここから先も、あなたと私の進む道は交わらない。
かくして、アイデンティティは人々の共通項を見出すための普遍的な概念たりえないことになってしまう。

リベラルの条件としてのアイデンティティ形成の道筋
リベラルやアイデンティティという概念が形成された歴史を筆者はたどります。
そのために、10ページ以上費やしているのですが、あまりそうした歴史探訪は好まないこともあり省略します。
ただ、歴史過程において、リベラルとアイデンティティが同時に論じられるようになったのは、近世・近代から現代への道すがらであり、その当初のリベラルが、現状、変質してきているという著者の認識に私も共感を覚えています。
著者は、その論拠としてフランシス・フクヤマのアイデンティティの以下の定義を紹介しています。
アイデンティティは、「自分のなかの真の自己と、その内なる自己の価値や尊厳を十分に認めようとしない社会的ルールや規範から成り立つ外の世界とのギャップから生まれる。」
これを受けて
生成過程に着目されたアイデンティティの前提は、社会の規定されない「本当の自分」であり、「本当の自分」に対する社会からの理解と承認を求めるようになる。そこから生まれた現代政治の一形態が、アイデンティティの政治といっても良いだろう。
と著者は言い、先述の歴史探訪に向かったのです。
近世・近代どころか、ソクラテスの古代にまで一時ワープし、ようやく発現を見、民主化運動を通じて、自らを政治的な人格として承認させるための法制度へと反映され、確立された「ほんとうの自分」という現代に通じるアイデンティティ概念。
それこそがリベラルの真髄、真骨頂のはずだったのですが。

強い個人を前提としたアイデンティティに対する「弱い、生身の個人」
西洋社会では、神からの解放も意味し、含んでいたその「ほんとうの自分」の入手・確認、すなわち「個人(indivisual)」概念の誕生であり「個人の解放」だったはずだが、それは必ずしも「個人の幸せ」と同義でなかった。
すなわちこれまでに社会に存在した画一的な価値観が、個人単位に分解されてバラバラになったとき、社会の基本的な合意の作り方を考え直す必要に迫られた。のみならず、個人の解放が「個人」そのものにもたらした問題がある。
と言うのです。そしてフクヤマの言葉をまた用います。
人間はきわめて社会的な動物であり、周囲の規範に合わせようとする感情を持つ。安定した共通の道徳的地平がなくなり、競合する価値体系が不協和音を生むようになったとき、選択の自由ができてうれしいと喜ぶ人はあまりいない。むしろ強い不安と疎外感を覚える人がほとんどである。ほんとうの自分が何者なのか、わからなくなるからだ。

アイデンティティが危うい
そして
この状態を、「アイデンティティの危機」と言い、ここに生身の個人のアイデンティティと、リベラルな「個人」概念の深刻な乖離が始まり、現代に至るまで埋められない溝が生ずるのである。
と一つの結論を導き出します。
現在の「同調圧力」などの要因は、まさにそうした病根・病巣にあると言えるでしょうか。
リベラル概念が発生した瞬間から、この問題が包含されていたことになります。
その危機は、当然ながら長い歴史において形成され、認識されてきたはずで、これについても筆者はページを費やしていますが、ここではやはり省略させt頂きます。

アイデンティティの政治とは
そうした変遷を経てたどり着いたのが、現在の「アイデンティティの政治」の時代となります。
限定的で一部の集団の尊厳を承認することは、人々の普遍的な尊厳を承認するよりも、はるかにコストがかからない。ここに目をつけたのが「政治的なるもの」。
細分化された集団に対して個別の承認を与えることで「票」を獲得し、権力の正統性を調達する。もちろん、アイデンティティの承認を求めてナルシスト化した個人にとっても、お手頃に自尊心を調達できることになるからウィンウィンだ。
ここまでは分かります。
菅内閣が、不妊治療の保険適用を就任直後言い出した。
これなどは、官房長官を務めた前内閣の少子化対策大綱に、古くから必要性が記述されていたが、一向に手がけなかった政策だ。
健保財政で賄うわけで、自分の懐は傷まない。ここでもコストはかからない。
喜ぶというか、感謝する人々も多いが、共感を呼び、支持率を上げることを考えると、コストゼロで、大きなパフォーマンスを得られる上手いやり方といえます。

アイデンティティの政治が生み出した、お手軽な政治の多様性と細分化
そして、こう断言します。
個人の承認欲求はインスタントに満たされる一方、社会は細分化された集団の殺伐とした集合体と化していく。普遍的な「人間の尊重」を承認するプロジェクトなど、個人にとっても政治権力にとってもどうでもよい話になる。
人々の多様性が細分化・個別化を生み、これを利用することによって権力の源泉を調達する「政治的なるもの」が存在する限り、このアイデンティティの政治は加速する。
こうして、政治は、一般的に政治を難しくすると予想される「多様性」のもとで、逆に「細分化」され、お手軽なものになっていくというのです。
そして、これらのナルシスト化した人々のセラピー手法として、ナショナリズム、アイデンティティ・リベラリズム、ポピュリズム、ニヒリズムの4種類を用意したと言います。
例えば、ナショナリズムを、人々のインスタントな欲求に応え、近代から現代への移行期におけるアイデンティティの危機において人々の不安と承認欲求を補ったものの一つとします。
それが、今また亡霊が現れるかのように新しくも陳腐な様相で拡散し、集約される傾向も生み出していると家言えます。
また、ポピュリズムは、リベラルな「個人」概念を前提とした世界観から追いやられ落第とされた人々の「敵対性(アンダゴニズム)」の受け皿として機能し、リベラリズムが生んだ病理であるグローバリズムやエリート主義への反発として、右派・左派を問わず台頭している、と言います。

リベラリズムの怠慢
次に、セラピーとしてのアイデンティティ・リベラリズムについてです。
普遍的な「自然権」概念を前提に、あまねく人類に権利保障するためのフィクションとして、我々一人ひとりが人種も国籍も言語も性別も捨象した、かなりの人格者としての「個人」であると初期設定した、近代リベラリズム。
そのリベラルの過ちは、人間の本性へのシビアな視点を詰めないままに、「自分とまったく相反する価値観も寛容に受け止めつつ、絶妙なバランス感覚を持ちながら、自分らしく生きる」理想的な個人像を設定し、モデルチェンジを怠った。
生身の人間とのギャップを埋めるためには、具体的にいかなる社会的政治的実践が必要なのかという議論は放置された。
寄るべき止り木を失った生身の人間は、自分のことを自分で決めきれるほど「強く」ないし、合理的でもない。そこに止り木を提供したのが、それぞれ「共感」を提供してくれる文化的なアイデンティティである。何らかの物語を共有・共感できる人々同士で連結し、バラバラのアイデンティティ集団を形成した。
すなわち、理想的で非現実的な姿勢を強いる「個人」概念が、アイデンティティ・リベラリズムを産んだのである。
そこから、嘆くべき、非難されるべき現在のリベラルが炙り出されるわけです。
リベラルの怠慢がもたらしたアイデンティティ・リベラリズムと言えるでしょうか。
この部分を読むと、やはり私事ですが、導入すべきと考えるベーシックインカムを想起します。
ベーシックインカムの導入で、非常に多くのアイデンティティ・グループがその恩恵を受け、安心安全で明るい社会を、個人の尊厳を保って生きることが可能になります。
例えば、保育や介護の厳しい労働環境・労働条件で働き人々、子育てや介護に従事することを強いられる女性、不安定かつ厳しい雇用条件で働く非正規被用の方々、高い授業料や入学費用に悩む学生、低額の老齢年金で不安な生活を送る単身高齢者、引きこもりの中高齢の子どもに悩む高齢親・・・。
すべてが、細分化され、個別化されたアイデンティティに括られる「個人」と、連帯感の薄いそのグループです。
こうした人々が、ベーシックインカムについて関心を持ち、自分にとってのそれだけを考えるのではなく、自分と同様に、あるいはそれ以上に不安な社会生活を送る人々にも必要であることを、共通認識として持つことができたら。
そう思います。
それゆえ、現在と未来に向けての新しいリベラルの構築が不可欠と思うのです。
著者は、こう括ります。
リベラルな「個人」概念からの脱落者たちのフラストレーションを政治的に一気にくみ上げるという点において、ナショナリズム、ポピュリズム、アイデンティティ・リベラリズムはすべて相似形である。
「個人」概念とこれを前提とした権利のカタログのモデルチェンジが迫られているのだ。
ここに来て、もうひとつ残してきたニヒリズムが気になります。
現在では、いわゆる無党派層・政治的無関心層に当たりますが、次に「国家の論理」との関係で見ることにします。

国家の論理と生身の弱い個人との戦い?
著者はこう言う。
国家からの個人の解放は、いつのまにか、解放された個人による承認の要求と、その要求に呼応する政治の関係に引き直され、ひいては承認欲求を満たすことにより権力の正統性を調達した国家権力が個人の承認主体として回帰してくる。
これは、「新・国家の論理」に行きついた皮肉か。
しかし、その後、市民社会における個人の選択肢の爆発的多様化、グローバリゼーションによる国境を超えた人・モノ・情報の移動の急速化、などにより従来の「国家像」は溶解。
ここに、国家対個人の垂直的承認関係は崩れはじめ、国家自身に課していた自己拘束の一端を我々個人にも課しはじめる。
これが「自助」というやつだ。
そして、もはや市民社会を維持するために、我々はエゴイストではいられなくなった。そこで国家が我々に課してきた「規律」とは、「公徳心と普遍性」に責任を持つことである。
こうして起きた、国家の論理の変質・弱体化は、個人に対し
国家が裁定に入らなくても、社会における個人と個人が、同じ目線で相互に尊重しあい、扶助しあう、そうしたマインドとアクションを求める。
例の、意識高い系であることを求めるというわけだ。
しかし、そこには既に他の問題が待ち受けていた。
個々人がエゴイストとして自由を謳歌している間に、家族や地域コミュニティや職場などの共同体は分解し、水平の承認関係を満たす役割を果たせなくなっていたのだ。リベラルな国家と個人像が目指した理想に向かう営むそれ自体が、むしろリベラルの目標とした社会像や生身の人間をズタズタにしてしまう。
リベラルの逆噴射だ。
こうして、本来は、国家の論理と個人の生身の弱い人間との戦いの問題であり、そのための政治の在り方を個人の在り方と結びつけて考えるべきという課題を再確認することになります。
しかし、その受け皿としてのリベラルが機能していない状況の責を、著者は、リベラルに直接ぶつけていることに気がつきます。
こうした個人と社会と国家との希薄な関係が続いた結果が、ニヒリズム、無党派層・支持政党なし層の蓄積・堆積として示されているわけです。
その状況は、望ましい理念・普遍性と目標が提示されれば、個人の尊厳と公徳心を再認識し、人権として行使されるのだろうが、ことはそう順序立てて運ぶわけではないのです。
保守政権政党が代行している国家機能が、真の民主主義に基づいて働いていれば問題ないのですが、とんでもない方向に行こうとしてしているのです。
その前に立ちはだかって、リベラルたるゆえんの代理行動をすべき政党が、保守と同じ土俵に立ち、同じ論理で立ち回っている。
かつて政権政党を担った時の稚拙な、国家概念・理念も、国民・個人の尊厳も、そしてその基盤としてのさまざまな社会の意義も十分理解し得ていなかった政治が、ニヒリズムを、取り返しがつかぬくらいに増幅させ、沈着させてしまった。
まさに失われた過去そのものと言えるでしょうか。
それゆえに、新しいリベラルの創造・構築を急がなければ行けないのです。
まだ、ニヒリズムが、無党派層・支持政党なし層とされているうちは希望はあるのですから。
この第1章最後を、著者はこうまとめます。
本来国家の介入を拒むリベラルな思想が、リベラルな思想を貫徹しようとしたことによって、国家の介入を必然的に許した。
リベラルがリベラルでいようとした結果生まれた矛盾である。
現在の日本のリベラル勢力の閉塞状況を打開するためには、何としてもこの矛盾を解消するステップへと前進しなければならない。

生身の弱い人間のためのリベラルたりうるか
さて、果たしてそれが可能かどうか。
政局に振り回され、選挙のための離合集散を繰り返す時間を費消するばかりで、こうしてみてきた現在のリベラルの根本的な矛盾を抱えた第2勢力としての野党。
彼らは、多様化・細分化されたお手軽な政治の現状に対する明確な自覚と、その抜本的な見直しの必要性への認識を持っているでしょうか。
分析から理念と方針の取りまとめには、相当の議論と思慮と時間を必要とします。
生身の弱い個人に訴え、理解を得るためには、それらを分かりやすく、実現可能と思うレベルまで具体化して提示する必要があります。
ナショナリズム、アイデンティティ・リベラリズム、ポピュリズム、ニヒリズムのどちらにも、普遍的なものとして提起できるものがあるか。
政権政党の一挙手一投足に反意を示すだけではない、具体性、実現可能性を持った普遍としての政策・法律案を提示してこそのリベラルです。
リベラルの弱みを自ら理解認識することから始めること、それが、強い個人の前提から、生身の弱い個人の立ち位置への同化、静態としてのニヒリズムの動態化に繋がると考えるのです。
次回は、くどいですが、もう一度リベラルの犯した誤りを<第2章 包摂から排除へと屈折するリベラルの軌跡>で、確認し、これを打破するヒント、きっかけを探ることにします。

このシリーズの各回の最後に、同書の帯に書かれている以下の文を、都度肝に銘じるために、転載することにします。
コロナ禍、5G革命、グローバリゼーション・・・
「フェイク」リベラルの語る「ハリボテ」立憲民主主義ではもう戦えない。
保守をも包摂するリベラルの再生こそが、現実政治の突破口だ!
保守をも包摂するリベラルの証となりうる、日本型ベーシックインカムの創造・導入。
追い求めます。

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