『リベラルの敵はリベラルにあり』から考える、個人の生き方と社会の在り方-1

国政政策

「『リベラルの敵はリベラルにあり』から考える、個人の生き方と社会の在り方」シリーズについて

いずれ紹介しようと思っていた、倉持麟太郎弁護士が書いた『リベラルの敵はリベラルにあり』(2020/9/10刊:ちくま新書)。
どういう形が良いか、しっかり考えることを先送りにしたままだったのだが、そろそろなんとかせねば、と思い立ったのが今日日曜午後の珈琲の後。

リベラルに対しては不満を通り越して、失望感が消えることがない現状。
それもこれも、結局現状の政治システムそのものを変えなければ、多くの社会問題の改善・解決は程遠く、というよりもまったく逆に方向に向かっているかのような国と社会を望ましい方向に向かわせることは困難の度を深めることに。
その対策・対応を考えていくために、同書で主張展開する内容に、何かしらのヒントがある。

そのヒントを、個人一人ひとりの生き方・考え方が起点となり、社会のあり方、一つ一つが課題となるという意識・認識を持つことからの活動に結びつけたい。
ということで、
「倉持麟太郎氏著『リベラルの敵はリベラルにあり』から考える、個人の生き方と社会の在り方」と題したシリーズを始めることにした次第です。


カウンター・デモクラシー実践活動実験開始のきっかけ

日本型ベーシックインカムの導入構想と実現のための方法検討、まとめ上げを今年以降の目標にしたのだが、現実的にどうするのか。
いろいろ試行錯誤を始めていた時に、タイトルが気に入って入手した本書。
斜め読みしたところ、イメージした通り、リベラル批判兼新しいリベラル構築提案書。
大いに感じさせられるところがある中、最後に提案してあった「カウンター・デモクラシー」という用語に触発され、ベーシックインカムに関するFacebookグループ<日本型ベーシックインカム実現をめざすカウンター・デモクラシー・ミーティング>:https://www.facebook.com/groups/1000705250416115
を開設。

まあ、それはそれとして、カウンター・デモクラシーについてより深く知ってもらおうというのが、このシリーズの目的ではありません。


令和おじさん政治の本質を感じ取る


新しい菅内閣が誕生して、既に1カ月余。
安倍内閣継承と言いつつ、言われつつも、安倍内閣よりもより過激に権力主義的、独裁的政治を志向するかのような新政権。
にもかかわらず、個別に分かりやすい、支持されやすい政策を選ぶことで、ポピュリズム的な政治を、国民の多くがその本質を感じ取ることなく、やりこなしていこうとしている。
ある意味、見え見えの政治なのだが、対抗が居ない、対抗が対抗の体をなしていない状況をカサに、習近平中国、金正恩北朝鮮、文在寅韓国と同質の政治体制ができつつある日本。

感性を失った国民ばかりになるのか、無党派ではあっても、しっかりと自らのアイデンティティを持ち、望ましい社会を創造するために、必要に応じ、的確な選択をできる国民であり続けることができるか。

令和おじさんによる、都合よく人気の令和おじさんに乗じての政治にごまかされないよう、必要時には、しっかりと適切なカウンター勢力となりうるように、この書から受け取ることができる知恵と理性と感性を磨いていきたい。
ということで、このシリーズを進めていきます。

現在のリベラルらしきもの正体

本書の一部を抜粋・紹介し、私の感じたところ、私の意見を添える形となります。
ただ、その構成・展開は、まだ考えていません。
そこで第1回目は、プロローグとして、以下の一文を紹介し、若干の感じるところを加えることから始めたいと思います。
その内容は、文字通り、同書の序文<はじめに>に提示されているもので、書のタイトルの源泉とも言える重要なものです。

 まず、実質において、「リベラル」が語る社会設計には現実味がない。リベラルな社会の基礎単位である「個人(Individual)」概念が現実の生身の人間と乖離しすぎているのだ。
リベラルはその初期段階において「合理的で強い」個人を前提としたが、我々誰しもが気づいているとおり、生身の人間は、しばしば不合理な選択をするし、説明のつかない儚さや弱さを内包した存在である。
それにもかかわらず、リベラルな社会設計はおよそ「合理的で強い個人」概念から出発して構築されるため、現実の「個人」とのギャップは、必然的に法制度や国家像に歪みとなって反映されてしまう。

 もうひとつ、リベラルが語る言葉が生活者に届かないのは、リベラルな価値を共有する対話の姿勢が上から目線に過ぎるからだ。
 本来、リベラルな価値を守るための「不断の努力」(憲法12条)は、自分と価値観が違う人間に対しても、辛抱強く伝え続ける企てであったはずだ。
しかし、リベラルは、自陣のロジックの正しさを、まるでそのロジックが唯一絶対の正解であるかのごとく「上から目線」で語り続けるばかりだ。
リベラルがリベラルの価値をその対話の姿勢に体現させるという不断の努力を放棄しているのだ。

それよりもひどい保守自民政権政党

いかがでしょうか。
もちろん、言うまでもないですが、保守が、このリベラル自体が抱える問題を超克して、望ましいデモクラシーの王道を進んでいるなどということは、断じてありません。
まったくその逆で、「国民のために働く」と甘言を吐きつつ、その裏では、目線は上どころか、まったく別の方向を向いています。
カネを握り、カネに関係する権限を握っているので、恩恵を受ける人はみな、その政策・政治を受け入れ、好意的に評価します。
なので、直接、今、自分の危機とならない限り、安全安心を脅かさない限り、カウンター勢力には決してならない。
他に不安やリスクを抱える大勢の人がいても、です。

現状の選挙制度、議院内閣政治制度、官僚制度がそうした数多の社会問題の源泉・元凶なのですが、内閣支持率のように、一時点一時点の政策・政局状況にピンポイント化された数字で、なんとなく政治に参加しているような感覚に浸っている、浸らされている。

その原因・責任の一端が、やはりこの国の「リベラル」らしきモノ、者たちにもあることは間違いないでしょう。
感覚的には、リベラル=左、そこからのイメージが、現在は、習近平中国、金正恩北朝鮮、文在寅韓国、となってしまうのですから、益々、疑似「リベラル」、リベラルらしきものが批判の対象、反対の対象となり、立場がなくなります。

さてどうしたものか。
こんな状況で、次の衆議院選挙で、少しは何かを望ましい方向に変えることができる結果を出しうるのか。
あまり期待できないのですが、これから、望ましいデモクラシーを実現するための<最終第6章 カウンター・デモクラシーという新たな挑戦>に至るまでの道すがら、同書各章の内容を少しずつ紹介し、活用しながら、個人と社会との望ましい関係の在り方、望ましい社会を実現するための個人の在り方を考えていきたいと思います。

次回は、同書<第1章 君たちは「アイデンティティ」を知っているか>から、一部を引用して考えることにします。


ところで、枝野くんや蓮舫さんは、この本を読んだかなあ・・・???



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