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菅総裁候補の自助・共助・公助の矛盾:政治家は公助で成り立っている

自助主義の菅・安倍後継政治の本質

早々にほぼ決着がついたかに見える自民党総裁選と次期首相指名・就任人事。
密室云々というが、とんでもない、白昼堂々の利権確保を目的とした主導権争い派閥戦術のなせるところだ。

高邁な政治信条や政策構想に基づくものとはまったく無縁の、旧態然とした自民党体質が、彼ら流に言うと「令和」時代にも連綿と受け継がれているわけだ。
令和叔父さんを担ぎ出して。

今日の日経紙面で、本命となった菅氏の理念・方針らしきものとして、
「自助・共助・公助」を掲げている。
出馬表明時の記者会見で「自分でできることはまず自分でやってみる。地域や自治体が助け合う。その上で政府が責任を持って対応する」ことが国の基本、と言ったことを引き合いに出して。

こんなことも付け加えている。
「大きな政府を志向するのではなく、行政や大企業の既得権益を打破し、競争原理を持ち込むことで国民の生活水準を高める。」

安倍路線継承も意味するその考え方が、多くの矛盾と格差をもたらしてきたことに対する自覚は皆無といっていいに等しい。
なぜか、携帯電話料金の引き下げに対するこだわりが大きいが。

ならば、電力自由化が、ほぼ既存大手電力を保護する形で進められ、新規参入の新電力に苦戦を強いている現実をどう見ているのか。
送配電網という基本的なインフラを自由化と再生エネ取り引きの自由化を含まない電力の自由化などありえない。
それは、電力料金引き下げに端から鍵が掛けられている状態に等しいからだ。
こちらも、国民生活レベルでこだわるべき課題のはずだ。

企業間競争を「自助」(努力)の対象・概念に含めて考えているのは自明で、そこでもう根本的に視点が違うのだ。
一人ひとりの国民ができる「自助」が、どんどん狭められ、なくなってきていることを見落としているか、無視している。

そして、行政の既得権打破は、安倍政治・菅官房政治では、内閣府に権限が集中し、悪政・失政の連鎖につながったことは、もうすっかり忘れ去っている。


アベノミクスの負のレガシー:自助が可能な生き方・働き方が狭められた社会と政治


それよりも、「自助」に対する認識が、国民生活の実態から大きくかけ離れていることに愕然とする。

非正規労働契約者を形式的に雇い止めを抑制・禁止する法律はあるが、コロナ禍をみる通り、結局正規社員への転換は、法が意図するほどには進まない。
いや、雇い止めはもちろん、解雇も増えている。

介護職員や保育職員の賃金と労働環境・労働条件は、一向に改善されない。
むしろ、コロナ禍で、心身とも負担が増し、自助で可能なことはないに等しい。

母子世帯も、ワークフェア主義の政策は、働く機会と所得を増やすのではなく、むしろ逆に生活を苦しくする作用を起こしている。
コロナで公的な保育・教育を受ける機会が減り、働く機会も減る現状は、自助とはかけ離れた領域で、不安とリスクを拡大している。

コロナ以前から、こうした「自助」努力をしようがない、しても報われない経済社会が定着し、かつ拡大をも継続している状況なのだ。
これがアベノミクスの負のレガシーなのだ。

これを安倍政治を支え、ある意味一心同体で進めてきた菅の政治信条の表明でもあるのだ。

加えて、滑稽なことに、3人の総裁選立候補者の方針・政策・理念をマスコミが毎日取り上げる。
本来、そうした内容は、自民党員と自民党所属国会議員だけに、総裁選のために向けられたものだ。
それらを聞かされたところで、私たちが投票するわけではないのだから、自民党内だけで収めておけばよいのだ。
それを、マスコミ媒体がこぞって取り上げる。
多くの記者が動き、コストを掛け、情報を垂れ流す。
その内容を報道・評価・批判したところで、まったく自助にも、公助にも関係はない。


菅氏の議員報酬も閣僚報酬も、すべて税金で賄われている公助

菅氏は気がついているだろうか。

それとも国会議員になり、官房長官になったのは「自助」自分の努力、力で実現したものだと、内心自負しているのだろうか。
確かに、東大卒官僚出身ではないし、それなりに努力も苦労もしただろうが、何年も国会議員をやってこれたのは、国費すなわち税金で賄われた報酬を得続けて来たからでもある。
閣僚としての特別報酬もしかりである。

仮に、国会議員や閣僚がジョブ型職業であれば、成果主義報酬として認めうるだけの成果・業績は、具体的に何があったのか、示すことができるだろうか。

総理就任に当たっては、是非、この「自助」の意味、及ぶ範囲などを再度自ら問い直してほしいものだ 。


大きい政府、小さい政府という紋切り型の方針・政策選択方式からの脱却を


なにをもって大きい政府といい、なにをもって小さな政府というのか。
そこでの議論は、オールオアナッシングか、右か左か、のガチガチの二者択一方式から脱却できない、脱却しないままである。
どの領域は、大きくせざるを得ず、どの分野は小さくしよう。
そういう判断は必要である。
財源面において縦割りの既得権を守る旧来の規範がまかり通っている限りでは、変わりようがないことは目に見えている。

だが、そうした縦割りを打破して、改革を導入するのが内閣府、官邸主導の政治・行政ではなかったのか。
しかし、内閣府の強大な人事権獲得でその役割を果たしたと思い上がったか、現実は、馬鹿げた、安倍政治末期の様相を呈した根源に成り下がってしまったのだ。
それが菅、新しい総裁・総理のこれまでのレガシーである。
彼の視野に入っているべき国・政治・行政の大改革命題は、携帯料金の引き下げレベルのことでしかないとすると、先行きは、そう明るいものではない。

それとも、総理に就任したことで、大変身して、常日頃不満を抱き続けてきた安倍政治への不信・不満・不安を、倍返しにして、望ましい政治改革に邁進するのか。
ありえないことだが、彼の一世一代の「自助」政治生命を掛けた戦いが始まれば・・・。


共助・公助の再定義と在り方の変革も

菅氏が、「自助」の次に持ってきている「共助」。
この定義、実際に可能な領域なども、是非問題点の洗い直しを含めて取り組んでもらいたい課題だ。

コロナ禍で見られたように、国が自治体に責任を負わせる印象のスタンス、措置が目についた。
理由、言い訳としては、住民に近いところで判断すべきだから、となるが、そこではやはり財源の問題に行き着く。
財政状況の違いが、打つことができる政策の違い・限界をもたらす。
一旦国税として収められている税を、当初から自治体に入るように、税制改革が絶対に必要だ。
共助を公助よりも先に掲げるなら、不可欠の仕事だろう。
道州制の道入も、現実的課題として検討を始める必要もあるのではないか。
内閣府の仕事である。

そして「公助」。

何かに付けて財源を言い訳にする政治スタンスは、能がないことの証明である。
できない理由から始めるのだから、民間企業に、競争を促し、自助努力を求めることとは矛盾している。
公助をどうするかを、公助を判断・活用する立場にいる内閣・官僚・所轄官庁が、自らのジョブ型の仕事として「自助」努力で、知恵を出し、改革変革に取り組み、成果を出し、成果に見合った報酬を得る。
その循環を、みずから生み出してこそ「自助・共助・公助」を語る資格を得ることができるのだ。

そんな、民間企業では常識になりつつあることが、政治・行政の領域とそこの住人には理解されない悲喜劇が、この国、日本に、あるのだ。

その変革は、結局、国民が、選挙という自助で、間接的に起こすしかないだろう。
総裁選は、ままごと、茶番。
来る衆議院解散総選挙が、アフター安倍、その最初の機会となる。
この機会を逃せば、望ましい自助・共助・公助社会の形成は、一層遠のく。

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