
○○の社会化という誤解、勘違い
「○○の社会化」の社会と、「○○社会」の社会
介護の社会化、とか、保育の社会化、という表現をよく目にする。
TVのそれらの特集番組でも目にし、耳にする。
どうも、しっくりこない言葉であり、その意味もよく分からない感じがする。
例えば、5月29日に閣議決定した「少子化社会対策大綱」。
ここで用いている「社会」は、高齢化社会、少子化社会というように、それらの問題や現象・実態が出現している「社会」だ。
そうなっている社会、全般を示しており、責任の主体がどうこうという議論は無縁な用語だ。
しかし、政府や行政や官僚が、好んで用いる「○○の社会化」での「社会」も、なんとなく、「○○社会」の社会と同じ次元、感覚で用いているように感じられることが多い。
要は、他人事感覚なのだ。
「社会でうまいことやって!」みたいな感覚か。
さすがに実務に携わる方々や専門家の方々には、そんないい加減なところはないと思うのだが、餅は餅屋で、思い込みや誤解、そして勘違いもあるような気がする。


社会化イコール民営化ではない
考えてみると、保育や介護などは、極めて公共的な事業であって、本来、国営や民営事業として行うことが望ましいのではないだろうか。
それは、一方が児童福祉法、一方が老人福祉法をベースとして事業が進展してきていることで理解できる。
福祉は、決して民間事業の対象ではないと思うからだ。
しかし、どちらもいつの間にか民営化が進み、民間事業者またはせいぜいで社会福祉法人が運営管理する形態が当たり前になってしまっている。
福祉事業の民間移転がいつの間にか、当たり前になってしまっていたことになる。
その社会福祉法人の一部は、利益追求事業化して、法律に守られながら、結構甘い汁を吸っているらしいという話が、以前からある。
介護士も保育士も低賃金のため人手不足が常態化。
その現実に多少は責任を感じているためか、そうでないのか分からぬが、補助金を投入して、底上げを図っている。
だが、これまた不思議なことに、それがきちんと現場のスタッフに行き渡っていない事業所もあるらしいし、そのことの責任を問うこともないらしい。
これももしかしたら、民営化という社会化に対して、多少なりとも後ろめたさを感じているためなのかもしれない。
いや、絶対そんなことはないとは思うのだが・・・。
やはり、結果的に、社会化とは民営化ということかもしれない。
だが、待てよ。
小学校や中学校の大半は市立等公立化されている。
公営事業だ。
そこで働く人はみな公務員だ。
ある意味先行利得を得てきたわけだ。
だが、保育士や介護士は、低賃金で厳しい労働条件・労働環境で働く、不人気職種だ。
小中学校こそ、教育の社会化、教育の社会性を明確に体現している公営事業だ。
だから、本来、社会化とは、決して民営化されることではないはずだ。
一般的な民間企業は、常に競争状態にあり、経営の質、経営者の質により経営の持続性が危うくなる。
しかし、公的事業の民営化は、時として、保護下におかれ、既得権益化する。
時に、政治に圧力を掛けうる力を保有し、選挙票を左右しかねない組織に肥大化する例も見てきている。
国や自治体の管理・監督下に一応あるのだが、なぜか、事業者のほうが立場が強いケースがあるのだ。
本来自身が担当すべき社会福祉・社会保障事業を委ねている後ろめたさもあるゆえかもしれないのだ。


社会化の社会は、決して「地域社会」ではない
また、研究者や専門家、あるいはNPO法人等で携わる方々が、○○の社会化と使っている場合、なんとなく、それとなく、あるいは確信的に、「地域社会」を想定しているのではと思うことが多い。
こういう人たちは、本当に善意にあふれる方々で、素敵な人が多い。
時に、行政もそれにタダノリしたり、悪ノリしたり、仕事をしているふりをしたりして、「地域社会」に期待したり、おんぶにだっこの姿勢を示すこと、下手に出ることがある。
こういうのも確信犯に近い。
例えば、地域包括支援センター。
その組織と活動の責任主体は自治体だが、社会福祉法人や社会福祉協議会、民間企業などに委託し運営されているケースが多い。
介護の社会化の一面を示す例なのだが、あたかも地域社会化とイコールのようにイメージ化されている。
また、地域社会化を表す象徴みたいな存在が、各種NPO法人だ。
これも本来自治体が担当すべき業務・事業を、善意に溢れた方々が組織を作り、福祉や社会保障などに関する活動のための資金の給付申請を自治体に届け出て、承認を受ける形式だ。
お上は、お金を分配する権限を持ち、申請を評価・判断する。
本来、平身低頭、自治体が、その団体に事業運営をお願いすべき立場なのだが、おかしなことになってしまっているのだ。
自治体が無言の圧力で形成してきた側面があるこの地域社会は、時に、住民に、無言の圧力を与えることさえあるのだ。
自治会が、自治体の出先というより手先みたいな機能をもち、なにかしらの強制力を日常生活で感じさせられることがある。
こうしたことからも、本来責任の主体がその単位にはないはずの「地域社会」が、「社会化」の当事者・責任主体とされ、結局、個人個人の責任に転嫁されることになりかねないわけだ。
国や行政が発する「社会」や「社会化」には、地域社会責任を意図し、最後は、その成員である個人の責任にしてしまうというマジックならぬロジックが埋め込まれていることに注意しなければいけない。
本来「地域社会」の当事者であり、責任主体である地方自治体自体が、国のロジックをすっかり、ちゃっかり盗用・引用していることも日常であることに、善意に溢れた方々はもちろん、フツーの私たちも気にかけておく必要がある。


社会化は、善意を強制し、善意に依存する社会精神主義を意味するわけではない
前段で述べたことを言い換えると、「社会化」というのは、責任主体が、責任逃れを意図しようが意図すまいが、社会のメンバーである国民や住民の善意、時には努力を強制して、何かを実現することを求めるものでは、決してない。
また、そうした善意に依存する社会でなければいけない、と主張して求める「社会化」でも決してない。
否、そうであってはいけない。
道徳・倫理・公民教育に基づく国策としての精神主義の強制では、絶対にありえない、あってはいけないのだ。


社会化の当事者・責任者は、国家社会イコール政治・行政
だから、再度確認すると、「社会化」を提起し、主張する当事者そして責任者は、国という単位社会であり、その権限と責任を、地域社会として請け負った自治体単位社会だ。
その単位社会が、政治・行政として、社会保障・社会福祉その他の社会経済事業活動に取り組む。
それが種々の事業の「社会化」である。
介護の社会化と保育の社会化という用語で、今回のメモを始めた。
介護や保育については、それぞれの行政システム改革の必要性とその内容などを当サイトで展開している。
これからも継続していく。
そこで、今回の一応のまとめとして、結論めいた端的な表現で、それぞれの社会化について考えるところを以下に、スローガン的に列記しておきたい。


介護の社会化の実態としての家族社会介護化
介護保険制度の導入自体が、介護の社会化。
そう位置づけ、意義付けされている。
しかし、その社会化された介護行政が、多種多様で複合的な問題を引き起こし、小手先の制度改定を繰り返すばかりである。
介護保険制度という法律が社会に公布・発効され、運用されてきた社会化が、解決不可能な問題の社会化を招いてしまった。
問題の社会化のツケは、国民・住民という社会のメンバーが負わなければいけない。
実は、介護保険制度での介護の社会化による問題の極めて重大な要因は、介護実務の社会化が、一応民業化で社会化を進めたが、実際には、介護の家族社会化を一層進め、強制し、家族家庭・世帯に責任を押し付けたことにあるのだ。
いわゆる「在宅介護」主義である。
真の社会化実現の道のりは遠い。
社会保障制度全般の改革と統合して取り組まなくては、弥縫策の繰り返しで、却って解決は困難になっていくだろう。
当サイトの目的・目標である。


保育の社会化のゴールは、義務保育化、保育の国営・公営化。すなわち国による社会化
保育の社会化については、種々の論考がある。
それらと関連させて、これまでも論じてきているが、今後も継続していきたい。
究極としての、目標・目的としての保育の社会化は、保育の義務教育化による社会化であること。
すなわち、保育は国及び自治体が担当し、責任を持つべき事業であり、社会化の社会とは、国家社会及び自治体社会である。
今回は、これだけとしたい。


資本主義・自由主義・立憲主義に基づく、高社会保障・高負担を持続可能にする社会保障行政システム社会へ
最後に、それらの社会化は、上記のスローガン、方針に基づき、10年単位で、10年後、20年後、30年後2050年をめざして、総合的戦略的に、かつ着実に変革を起こしつつ取り組み、社会に浸透させていくことをも意味することを加えて起きたい。


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