
生の尊厳を守る権利としての安楽死法の導入を:ALS患者、嘱託殺人容疑医師逮捕事件に思う-2

昨日2020年7月23日難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の嘱託殺人容疑で2人の医師が逮捕された事件について、考えたことの一部を
◆ 自死選択尊重死で安楽死法制定を:ALS患者、嘱託殺人容疑医師逮捕事件に思う-1
で述べた。
今回は、別の面から「安楽死」「尊厳死」「死ぬ権利」について考えてみたい。

死ぬ権利を主張・行使できない場合・人の「尊厳死」「安楽死」
自分で「死ぬ権利」を、「尊厳死」「安楽死」を望むことを、伝えられない人、あるいは、伝えても受け止めてもらえない人がいる。
その人々の「死」をどうするか。
難病などを要因とする安楽死・尊厳死ではなく、人が避けえない老衰や要介護状態の進行等による死についての場合である。
ほとんどの人が、日常の生を経るなかで辿る、死への道でもある。
自分の意志をはっきりと伝えることができる状態で、伝える場合や人。
一方、そうした医師・希望について誰かに話すことなく、意志を表示することができなくなった人。
なんとしても生きたいか、死にたくないか。
家族にどんなに世話を掛けても、世話になっても、あるいは介護施設や病院で、できる限りの介護や医療を受けて・・・。
あるいは、本人の家族の思いにも、違いがあるだろうが、終末期の在り方をどう考え、どう備えを行なうのか。
難病ではないが、間違いなく死に向かい、生かされることでしか生き続けることができない状況が進行していく。
そして、意識が混濁し、なくなり、人たり得ない脳死同様の状態になった時、あるいは、間違いなくそうなると診断された時。
予めの本人の意志や、本人の意志表示代行者としての家族や第三者の意志としての安楽死、尊厳死はありうるのか。
延命を図ることを、一種の自然死の準備として捉えれば、安楽死について考える必要はないのかもしれない。
しかし、延命措置を中止する、断ち切ることは、安楽死問題との関わりが必要になることを意味する。
介護と関連して安楽死・尊厳死を考えることは、まだ日常的レベルにはなっていない.
しかし、家族による介護殺人(未遂も含む)事件が発生すれば、やはり安楽死・尊厳死を考えざるを得ない気がする。
介護保険制度や介護士不足、介護施設不足、家族介護問題などを考えれば、これらと関わらせて、重度の要介護者の安楽死・尊厳死も、現実的な課題として、想定・対策を行っておくべきではないか。
そういう発想が出てきても不思議ではないだろう。


98歳義母特養入所時の延命に関する確認事項:「看取り介護指針・終末期対応等に関する確認書」から
98歳の義母が、要介護1から要介護4への認定区分変更で、今年5月、サ高住(サービス付き高齢者住宅)から特養(特別養護老人施設)に転入?した。
その体験は、
<98歳義母介護体験記・第2フェーズ>シリーズで、当サイトでレポートした。
その特養入所時に確認と提出が求められた書類に、長い名称だが、
「看取り介護指針・終末期対応等に関する確認書」
というのがあった。
確か、5年前のサ高住にもほぼ同様の主旨の書類があった気がするが、今回は特養バージョンを紹介したい。
その書類の画像は、下の方に掲載したが、質問項目と回答選択肢は以下のようになっている。
1.終末を迎える場所:施設、病院、自宅、その他、わからない
2.急変時・終末期の医療:積極的に治療(心肺蘇生、延命措置)、自然に任せる、わからない
3.口からの食事の摂取ができなくなった場合の対応:
・胃ろうの造設:希望、希望しない、わからない
・胃ろうによる経管栄養:希望、希望しない、わからない
・経鼻経管栄養:希望、希望しない、わからない
・IVH(中心静脈栄養):希望、希望しない、わからない
義母に直接意志を確認したわけではないが、多分、そう思うであろうと推察し、長女である妻とその夫で、保証人となっている私とで話し合い、確認して、胃ろうは行わないこと、延命措置も行わないことに同意した。
入所して3カ月経過したが、この間、骨折して完全に車椅子生活になったことで、食に対する意欲も薄れ、実際に飲食の量が減ってきている。
特養からは、その旨の報告とそれに対する栄養補助飲料の利用、同じ目的での医薬品の処方の利用などの実施とそれに対する同意・署名の要求などが、日常を通して時折ある。
サ高住の主治医が、特養主治医宛書いた紹介書に書き記したように、まさに、「日々、衰弱が進んでいる」。
義母の死について考えるべき状況においては、安楽死は、家族が考え、備えるべき課題であろう。
積極的に安楽死を引き寄せる必要はないが、人為的に生を持続させる必要はなく、自然的に死を迎える消極的な安楽死を望む。
そういう死を望み、死を選択する権利は、後見人である家族にはあると思うのだ。


生きる権利・生かす権利と権利行使のためのコスト・犠牲への補償責任
この特養では、看取りも入所時にお願いしている。
看取りを迎えるまで、義母の年金のすべてが特養生活に費やされる。
その負担額は、実際にかかる介護諸費用の1割のみ。
死を迎えれば、年金給付も介護給付も不要になる。
社会コストを考えれば、死は早ければ早いほうがよい。
まだ、自分で食事を摂り、トイレも、介助をしてもらうが、なんとか紙おむつを使わずに対応できている。
これが、完全に寝たきりになり、食事も下の世話もすべて、介護スタッフの手を借りなければならなくなったら。
そして、脳死状態にまで至ったら。
本人の生きる権利、当人を生かす家族の権利はあるが、その権利行使には、実際には、本人負担をはるかに上回る様々なコストや犠牲が発生する。
そのコストや犠牲を負担した人や社会に対して、当人がどれだけの補償をすることができるか。
それが法的に求められるもの、義務付けられたものではないが、意識を持ちたい、持つことが望ましいと思う。
そういう人でありたいと思う。
ならば一層、安楽死について考え、理性的にそれを認める者であることが望ましいと思う。


自分ならば願いたい、「尊厳を守る」べき選択としての安楽死
自身で、自立した生活を送ることができない。
とりわけ、生の根源である、食事や排泄などの基本的な行為のほとんどを、他の人々の介助なくして行えなくなった時。
このような状態に至ったときには、自身の尊厳を失った状態にあると考え、生きる権利の停止、そして死ぬ権利の行使の地点・時点に至ったと私は考えたい。
ただそれが最終地点ということではない。
その状態に加え、自身の何かしらに対する意志や意欲などをも示し、伝えることさえできなくなった時。
それが、自分としての尊厳を守ることが不可能になった故の「尊厳死」「安楽死」の権利を行使し、その実行を委嘱する時としたい。
そのために、その意志・その旨を伝えることができなくなることもありうることを想定して、事前に、家族に伝えておこうと思う。
終活の一環として。
故に、個人的にも、安楽死法は、できるだけ早く成立して欲しい。


ホスピスの緩和ケアと自然死的安楽死
がん治療で緩和ケアを受けながら、自宅で死を迎えることを希望する自身や家族、そしてそれを支える医療従事者・医療機関がある。
生きる権利、死ぬ権利の行使の仕方に、本人または家族の意思表示が伴っている形だ。
理想の一つとして取り上げられるが、これも一つの自然死的安楽死支援の形と言えよう。
もちろん、多くのコストがかかる。
その負担方法に、さほど選択肢はなく、かなりの部分は、保険給付だろう。
気になるところだ。
そういう生活を送る人びとにとって、大切で貴重な時間であり、生である。
でも、直接・間接的に支え、支援する人びとや社会が存在して可能なことでもある。
多くの言葉は要るまい。


ALS女性患者嘱託殺人事件続報から考える、人の社会の諸矛盾
ひとときの話題提供と喧騒で終わらせない社会に
日が改まり、ネットでは、この事件についての種々のマスコミ情報が、一気に溢れている。
既に、被害者とされている女性患者の実名と経歴も明らかにされている。
2人の医師容疑者の経歴や、女性とのSNSでのやり取りも、なぜか公開されている。
この事実・実態も大きな問題だと思うのだが、生きる権利・死ぬ権利と比べれば、どうということはない、軽い、軽んじられてもしようがない個人とその情報なのだろうか。
そしてそれが報じる側の権利であり、その情報を受け取るわれわれの知る権利なのだろうか。
犯罪と決めつけ、社会的関心を惹起する権利は、どこから生じるのか。
ここまで報道するマスコミの狙い・目的・意図はどこにあるのか。
一応、安楽死に関する問題提起を、こうした事件が起きるたびに行なうが、時間とともに忘れ去り、また同様の事件が起きた時に、過去の類似事件として紹介し、また、同様のサイクルを回す。
その視点・論点は、違法性の有無・程度に当てられるのも、毎度のことだ。
皆、評論家で終わってしまう。
政治・立法・行政・司法を変えるまでの追及や要求が行われることも、継続することも、いつの間にかなくなってしまう。
いつまで人間はこんなことを続けるのだろうか。


死ぬ権利・安楽死を求める必死の声を聞き、応える社会システムを
「屈辱的で惨めな毎日がずっと続く」
「望まないのにこんな体で無理やり生かされてるのは人権の侵害だと考えます」
「患者を生かすことをなぜいつまで医療者は使命だと思っているのだろう?」
ネットで目にし、切り取った、亡くなった女性ALS患者が、SNSに残した言葉だ。
自分という人間の尊厳を守りたいが守れない、心底からの嘆き・叫びの一端だ。
こうした人のためにも「死ぬ権利」に基づく「尊厳死」「安楽死」を、人社会は一日も早く認め、法律としようではないか。
そして、一生懸命生きながらも果たせなかったその人の生と死を、共に無念の思いを抱いて、厳かに見送ろうではないか。
見送る私たちすべての人が、相互に、生きる権利を尊重する。
そしてまた、人の愛をもって、死ぬ権利についても尊重する。
それぞれが望む人生を多くの人が送ることができた後に、望む死を迎えることができる。
そうした望ましい社会を創出し、持続させたいものだ。


一日も早く、公正な安楽死法の成立を
人としての尊厳を重視していない人には、生きる権利ばかり主張する人も多くいるだろう。
介護保険料や健康保険料を払っているから、自己負担率が1割で済んでいる保険制度へのありがたみなどまったく感じず、介護サービスや医療給付を受けるのが当然の権利と思い、主張する輩がそうかもしれない。
死や自身へ危険が及ぶリスクに対しては過剰に反応する。
こういう人にも、安楽死法をしっかり理解してもらう必要があるだろう。
もし安楽死法が成立すれば、自分の意志を伝えられない人や、伝えたい人の意に反した行為で、安楽死を選択したと見せかける犯罪が起きるリスクがある。
死ぬ権利の行使も、意思表示が十分な思慮が欠けていたり、衝動的であったりなど、事前の確認が不十分であれば、まさに悔いを残す場合もある。
合法と見せかけて違法な安楽死を実行する、実行させるケースへの対応も必要になる。
やはり、法には厳格なルール、基準が必要だ。
安楽死法は、十分な議論・検討を経て、公のものとしなければならない。
繰り返しになるが、安楽死法は、生の尊厳を守る権利として、安楽死を認める社会的規範としての法である。
安楽死法の導入は、当サイトの方針・目標である、望ましい2050年社会実現のための、極めてベーシックで、人間的な改革課題の一つでもある。
2025年までには、立法府を経て、国民的合意に至りたいものだ。




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