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自死選択尊重死で安楽死法制定を:ALS患者、嘱託殺人容疑医師逮捕事件に思う-1


ALS患者へ薬物投与、医師嘱託殺人容疑医師。約8ヶ月後の逮捕


昨年2019年11月、京都市で在宅介護を受けていた難病のALS筋萎縮性側索硬化症の51歳の女性患者が搬送先の病院で死亡。
今日7月23日、京都府警が、仙台市と東京都の医師2人を、薬物投与による女性からの嘱託殺人容疑で逮捕したことが報じられた。

詳しくは、ネット記事やTVの報道、明日の朝刊で確認できるが、起こりうる事件、表現が的確性を欠くかもしれないが、日本では「安楽死」問題としてまた取り上げられることになる。

果たして、今回の事件は、安楽死を認めるか、法制化すべきかの本格的な議論と検討にまで至らせるかどうか。
私は、そうあって欲しいと願う者の一人だ。


発覚してから7カ月以上経過してからの逮捕と情報公開。
それなりに警察も迷い、悩んだことがそこから感じられる。

しかし、現行法では、「殺人罪」という刑法を適用せざるを得ない事件と判断したわけだ。
というか、せざるを得なかった、そうしなければ職務怠慢であり、看過すること自体が違法ということになるわけだ。
ただ容疑の罪状を「嘱託殺人容疑」としていることにも、苦渋の判断が読み取れよう。

難病ALSに罹り、心身ともにつらい日々を送っていた女性。
自身が日々接する医療・介護関係の人に、死にたいと漏らす機会は恐らくあったと思う。
が、当然のことながら、それらの人々が、希望を受けれて安楽死に導いてくれるはずはない。
ならば、SNSで協力してくれそうな医師と連絡を取ることができ、自身の意志・希望を伝え、依頼。
医師が応じた。
そう推察可能であり、件の捜査関係者への取材からのマスコミ記事にもそれらしいことが書いてある。

関与した2人の医師に当初から接点があったかどうかには今のところ触れられていないが、金だけが目的ということはないと私は思う。
医師免許取り消しのリスクがあることなのだから。
こうした難病に関する知識はもちろん、自殺幇助あるいは嘱託殺人の罪について調べ、考えることも当然あったはず。
果たして、関与したことが分かることはないと思っていたのか?
なにかしらの覚悟・意識を持ってのことだったろうと思うのだが。

昨年11月末から今日の逮捕に至るまで、どんな心持ちで毎日を過ごしたのだろうか。


ALS(筋萎縮性側索硬化症)とは


ここ数年、目にし、耳にすることが多い、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)。筋肉を動かし、運動をつかさどる神経が障害を受けて、呼吸や手足などの筋肉が次第に動かなくなるいわゆる進行性の難病。
原因や発症の仕組みは不明で、根本的な治療法は確立されておらず、2018年の国内患者数は9805人とされている。
病状の進行には個人差が大きく、進行を遅らせる薬はあるが、最終的に呼吸が難しくなり、人工呼吸器を使わなければ生存期間は2~5年とされる。

人道と安楽死をめぐる議論に、そろそろ法的結論を

今回の事件は、最近多くの人が知ることになった難病ALS患者の自死希望にからむことで一層注目されるだろう。
しかし、いわゆる「安楽死」事件として着目すれば、難病だけを対象として考えるべき、というわけではない。

意思能力を完全に喪失し、戻ることも戻すことも医学的・生化学的に不可能と診断され、かつ食べ物や飲み物を自ら摂取できない、いわゆる植物状態になった「人」。
その「安楽死」も、長く人間の尊厳に関わる問題として、議論の対象となっては来たが、法制化するまでには至らぬままである。

「人間の尊厳」の問題は、表現を変えれば「人道」問題となる。
また、「安楽死」は、人間の尊厳と結びついて、それを尊重してのこととなると「尊厳死」と表現され、用いられることにもなる。


人道とはなにか

そこでの「人道」とはなにか? 

医師が「安楽死」を希望する人にどう対応するかは、法律で認められていなければ「倫理」問題とされる。
「人道」と「倫理」をどう使い分けるのか。

人として、自分の意志で生きていくのも人道。
それが不可能でも、人としての命が尊いものとして、看護・介護され、医療を施され生かされ、生きていくのも人道。

能動的人道か、受動的人道か、の違いがそこにはある。

受動的人道を与える、あるいは提供する能動的人道にある人々。
もしその能動的人道が、相当の犠牲や負担で維持されているとしたら。
あるいは、相当の社会的経済的コストで、維持されており、そのコストを賄うための収益を得るために、相当の努力や負担が投じられていたら。

どの人道が優位で、優先すべきか。
ある意味、そのような議論をしても、皆が納得・満足するような合意・同意は得られないだろう。


「生きる権利」と同様にある「死ぬ権利」だが・・・。

「生きる権利」はすべての人にある。
しかし、「生きる権利」を法律で剥奪されることがある。
刑法で規定され、裁判で宣告され、最終結審した「死刑」がそれだ。
だから、生きる権利を法律で奪うことに反対しての「死刑廃止」が法制化されている国もある。

「生きる権利」があるならば「死ぬ権利」も等しくあるべきだ。
それも一理はある。
しかし、かと言って、まだ生きている期間・年数が短い若者や、養育・保護すべき子どもたちを持つ親に、お先に失礼されるのは、それこそ「人道」的じゃない。

そもそも「死ぬ権利」を主張する権利を持つ人は、一切の社会関係・人間関係をゼロにした上でしか、その権利を行使できないことにしすべきだ。
もう少し踏み込んで言うと、果たすべき責任や義務がまったくない人だけが主張できる。
生を終えた直後の処理対応を含めてのことだ。

だから、「死ぬ権利」を行使する人は、そこまで考え、対策を講じておかないといけないというわけだ。
それができれば、そしてその意志・希望を提示して「自死」を選び、実行する、あるいは手助けしてもらう。
これは「尊厳死」であり「尊重死」だ。

こうした「尊厳死」を「安楽死」で実現する意志を尊重しての「尊重死」。
これを、一つの「人道」として認め、「安楽死法」を法制化する。
その段階に、そろそろ一段昇り、一つの安寧の道・方法を設定しても良いのではないだろうか。


死ぬ権利を主張・行使できない場合、人の「尊厳死」「安楽死」

そして、もう一つの「尊厳死」「安楽死」にも踏みこんでおく必要がある。

そう、自分で「死ぬ権利」を、「尊厳死」・「安楽死」を望むことを伝えられない人がいる。
その人々の「死」をどうするか。

次回考えたい。

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