高校教育の多様化を教育の水平的多様性実現の起点に:『教育は何を評価してきたのか』から考える

社会政策

いじめ問題、不登校・ひきこもり、格差。
種々の社会問題において、「教育」との関わり、「教育」の重要性への思いは、募るばかりである。
しかし、現状自分では、どうにもしようがない。

2050年の望ましい社会創りには、教育改革も必須と考えている。
その必要性の視点・起点には、
1.いじめ、不登校・ひきこもりがない学校と児童とその教育
2.ひきこもりにならない、適度な社会性をもった成人を送り出す社会形成とその啓発
3.自ら仕事・働き方を、自身の生き方と重ね合わせて選択または作り出す意識の啓発と必須知識技能教育


まだ表現としてはこなれていないが、その3点にある。

そういう意識で、適切な新書が出ることを願い、そう思える書に出会えば、即入手しようと考えてきた。
近著では、『教育は何を評価してきたのか 』(本田由紀氏著・2020年3月初版)
だ。
今回、この書を参考にし、考えた一部をメモしてみる。

学力は高いが、稼ぎに結びつかず、自信を持てず、不安な生活を送る日本人


本書のテーマである「教育は何を評価してきたか」。

その着眼の起点は、グローバルレベルでは高い学力を示しながら、それに応じた賃金レベルに結びついていないこと。
および、そうした教育が、自分に対する自信や将来への夢・期待にもつながらずに、自信を持てず、将来に対する不安を抱かせる状況・結果をもたらしていること。

私としては、それに、いじめや不登校・ひきこもりが、大きな社会問題となっており、その改善・解決策が見いだせにない状況続いていること、を加えたいところだ。

そもそも、私が、現在の教育を変える必要があると思わせるきっかけが、そこにあるからであり、本書や類書を手に取る理由の一つでもあるからだ。

しかし、今回は、その視点から少し離れ、筆者の執筆動機の領域に絞って本書を見ることにする。



「能力」「態度」「資質」指向教育批判:メリトクラシーを能力(主義)としたツケが教育に


メリトクラシーを能力主義と訳し、教育における評価の対象を「能力」としたことが招いた、<垂直的序列化>と<水平的画一化>。
そこに絡み合う、新教育基本法が求める「態度」「資質」。

それが、先ほどのような「いきづらい社会」の形成と、自信や希望を持てない人間教育?に結びついてしまった。

本田氏の怒り・嘆きの要因は、簡単に言えば、そんなところか。

皇国の民への洗脳を目論む教育勅語を連想させるかのような「新教育基本法」への批判は、当然のことである。
恥ずかしいことだが、この新教育基本法に、もう15年近く前2006年に改定されていたことは知らなかった。

能力主義・メリトクラシーが、選抜・選別・格付けにより<垂直的序列化>を進めてきたことは分かる。
一方、態度や資質が、特定の振る舞い方や考え方を全体に要請・強制する圧力を意味するため、<水平的画一化>に繋がることも、同様だ。

しかし、前者においては、元々国際的な次元・領域では<メリトクラシー>と表現されていた用語が、なぜか日本ではそれを<能力>と訳してしまったことで、誤った方向で、教育が行われてきたと、筆者は指摘している。
確かに、メリットと同根であるメリトクラシー。
能力というよりも、長所・特性というニュアンスの方が近いと思うし、より拡大解釈すれば、「個性」にも届く用語だ。
もし「長所主義・特性主義・個性主義」としていれば、風向きが大きく変わっていたかもしれない。
が、後の祭りだ。
終わってしまったことは致し方ない。
では、その状態の現状とこれからをどう変革していくか、その戦略と戦術を本書は提示しなければならない。

なお、経営コンサルタントとして、人事制度の設計運用や人材開発・組織開発に長く携わってきた私も、企業の世界では、能力や態度・姿勢という用語をキーワードにしてきた。
但し、それは、垂直的序列や水平的画一化をめざすものではなく、専門性・専門スキルやそれらへの志向を促しつつ、実務能力の顕在化、潜在能力の顕在化をめざすものとして用いてきた。
学生社会における教育とは、一線を画してものだったことは当然である。
いずれそれらについて述べることがあるかもしれないが、ここでは以上にとどめたい。


めざすべき<水平的多様化>教育


あまりにも重要なことがデータを含めて盛り沢山で、どこに絞って今後のあり方を考えるべきか、一筋ならではいかない。
なので、ズボラだが、一挙に本田氏の終章における提案に跳んでいきたい。

垂直的序列化を皆無にすることはムリと思うし、特定の目的を持つものであれば有用とも私は思う。
むしろ垂直的序列化で、問題の所在をあぶり出したり、改善・解決の方向を明らかにできる効用もありうるだろう。

だが、水平的画一化は脅威であり、恐怖でもある。
良いことはなにもないと言えるかもしれない。

教育の本質は、断じて画一化をめざすものではない。

ゆえに、筆者の主張・提案通り、水平的多様性をめざし、そして実現するものであるべきだ。
そして、その実践の場は、やはり、同氏の提案通り、高校教育からだろう。
中学教育でも、そこに導く準備段階としての啓発的プログラムは必要と思う。


高校教育の多様化から


本田氏は、普通科がほぼ7割を占める現状の高校教育を改め、水平的画一化から水平的多様化への転換を図るべく、以下を提起している。
ごく一部で、それなりにボリュームがあるが、そのまま引用した。

高校の学科を多様化する。
すなわち、現状の専門学科の種別と定員を拡大する。
どのような専門学科を導入・拡大するかは、地域社会の現状や産業構造に照らし、国及び自治体で検討するとともに、継続的に分野・内容・地理的配置等を検知う・刷新する体制を整備する。
各専門学校の教育内容は共通科目と専門科目からなるが、進学などに際して専門の転換が可能になるよう、共通科目の比率を確保するとともに、専門科目についても一定の幅広さと他分野に接続可能な内容を盛り込む。
どのような専門科目からも、上位の学校段階への進学を可能にし、行き止まりの進路とならないようにする。


全面的に賛成である。

こういう方針に基づき高校教育が改革されれば、吉川徹氏が
日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(著・2018年4月初版)で指摘・問題視した<非大卒者>の「社会的分断」のリスクは、かなり改善・解消されるのではと期待したくなる。

もちろん、本田氏の提案は、まだまだ、もっともっと、より具体的に、多様に展開されており、いずれまた紹介したり、参考にしたいと思っている。

私の提案も、いずれ近々整理して、提起したい。


なお、本書とその『日本の分断』に加え、本田氏も同書で取り上げている、
教育格差 ─ 階層・地域・学歴 』(松岡亮二氏著・2019年7月初版)
の3冊を、新書版教育書ベスト3として、お薦めしたい。

「それで?」「で、どうする?」


新教育基本法やそれに準拠して改定・改悪された学校教育法自体の再改正をどのようにして実現するのか、どうすれば可能なのか。
本書に限らず、種々の社会問題を取り上げた書を読み終えるたびに、最近は、
「それで?」と心のなかで、必ず問い返すようになった。

いろいろアピールはできる。
学者・専門家はそれらをものにして書にまとめ、出版し、それなりの収入を上げることもできる。
それぞれに関係・関連した書は、新書それぞれの表紙カバー裏や、書の末尾のリストに載っており、読んでみようかと思うこと、実際にネットで中古書として入手することもある。

だが、数多くの問題提起書が世に出され続けてきてはいるが、歴史が塗り替えられ、問題が解決・改善された試しはほとんどないに等しい。

例えば、今回の教育に関してだが、教育の現場、教育担当者の能力・資質・態度、そして適性についてはどう考えるか。
ほとんど踏み込んでいない。
ある意味では、生徒の水平的画一化は、教師・教員の尊厳や権威を一方的に守らせる効果をもたらし、いじまや不登校・ひきこもりなどの社会問題を隠蔽してしまう学校システム化に貢献することにもなる。
多様な個性を大切にし、育む指導をするよりも、よほど楽で、気分がいい。
そんな、トンデモ教師がはびこるリスクが拡張・拡散するやもしれない。
(すでに、というか、潜在的に、かつ元々そういう願望を持って教師を志望する大人こどももいるはずだから。)

で、どうする?


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