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在宅勤務でも孤独感・疎外感を感じない働き方・生き方


コロナ禍での在宅勤務がもたらした不安の要因とは


コロナ禍で在宅勤務を強いられた人たちに、メンタルヘルスケアが必要なケースが増えているという。
そういう人のためのサービス、例えば、ストレスチェックやカウンセリングなどのサービスの提供だ。
サービスと言ってもビジネス。
物ではなく、心に関するサービス。
毎度のことで、現代ならではのことだ。

日常の会社勤めにストレスを感じていた人たちもそうなのだろうか。

同じ人が、会社での人間関係にストレスを感じ、在宅勤務によるコミュニケーション不足でまた不安やストレスを感じる。
もしそうならば、一体どうすれば良いのか、これからどう働くのが良いのか。
実際のところどう働きたいのか。

どちらにしてもストレスフル、ということになる。
そうすると働くこと自体がストレスということに至る。

それなら働かなくていいんじゃないの、と言って終わりになるのなら良いのだが、そうはいかないのが人間社会。
ストレスを感じずに、楽しくやれる仕事・職業を探すか、自分で創るしかない。
果たしてそういう仕事があるかどうか、本人の感じ方次第なので、傍がどうこう言うものでもない。

人間がどうも弱くなっているような気がする。
いつの時代に比べて、とか、何と比べてという基準を示すべきだが、それも端からムリなこと。
感覚的な議論・推論にとどまるが、それはそれでいいのだと思う。

感染症に無防備な生物的存在が、精神こそが他の生物と違う強みであるはずの人とが形成し営む社会において、弱さをさらけ出している。

どうも、雇用社会の際限のない拡大がそういう状態を招いたような気がしてしまう。
こんなことを考えると、もう一つ指摘されそうなことが思い浮かぶ。
すなわち、「地域社会」の消失が、その原因の一つだと。

地域社会にはコミュニケーションがあった、相互の助け合いがあった、と。
だが、その指摘が妥当な地域社会は、働くこととの密接度、関係性がかなり強かった。
農業や林業、漁業など、いわゆる第一次産業が主な時代の名残であり、郷愁のような気がする。
当然、その時代背景には、多世代家族など守るべき「家」と「家族」という地域社会における一つ一つの「核」「単位」が存在し、地域を構成していたのだ。
やはり郷愁だろう。
が、なにかヒントがあるような気もする。


会社や勤務先における社会関係、人間関係の意味と必要性

ところが、会社や勤務先には、「家」「家族」や「地域」というそれぞれの社会態様はない。
経済的な合理性を追求しての企業社会、職場社会があるのみだ。

確かに、そこでは、社員間、上司と部下の関係でのコミュニケーションのあり方や、最近ではメンタルヘルスなどの対応が重要な課題と認識されている。
そして、それなりに手を打っているところもある。
ただそれも、マネジメント技術として捉えられたり、社員の健康・福祉などに関わる企業の社会的責任論の範疇の課題として論じられ、取り組まれることが多い。

一方、地域社会においても、企業社会においても、個人個人のプライバシーとの関係のあり方が問われてもいる。
現代では個人のプライバシーは守られるべき、という原理原則が優位だ。

しかし、実際には、プライバシーを尊重して欲しいはずの個人個人が、人間関係や社会との関係を不可欠なものとし、その線引を自ら曖昧にしているのではないかとも思う。
実際には、プライバシーよりも人との触れあい、コミュニケーションの方が大事、必要という人も多い。
それがないと、メンタルが持たない、崩壊する、という感覚の人もいるということをコロナ禍での在着勤務が示したわけだ。

そういう人は、本来企業などで雇用されて働くことに向いていないのではないか、そう思う節もある。
なぜなら、企業経営の目的や合理性の優先順位が、良い人間関係を作ることではなくて、経営活動を通じて利益を得ることにあるからだ。
良い人間関係作りはそのための手段の一つであるが、そのためにコストや労力を相当必要とする場合がある。
採用・定着・教育などの活動もその中に入る。
だが場合によっては、極力その手間や時間を排除しようとすることもあるのだ。
典型は、ロボットやAIの活用に置き換える、促進するという方法だ。

そういう理解や認識が、働く人に本来必要なのだが、意外に社会や会社はそのことを指摘したり、理解することを求めたりすることがない。
決して、理解していて当たり前と認識してのことではなく、会社勤めが当たり前である社会のある意味優しさであり、当然その真反対の冷たさゆえではないかと思う。

もちろん、良い人間関係を形成し、それをその企業や組織の強みとし、企業や組織の成長発展の基盤としている事例も多い。
だが、在宅勤務の拡大あるいは常態化が、それらに変化をもたらさないとは断言できまい。

会社・職場からリモートされた場合、一部の人は、コミュニケーションの仕方や比重について、恐らく疑問を感じたり、変化・変革が必要と感じるだろうから。
そうすると、在宅勤務でコミュニケーション不足に不安やストレスを感じた人たちは、今後どうなっていくだろう。
どうすればいいのだろう。
これからの課題になるはずだ。
彼のことだけでなく、会社や職場全体の仕事の仕方・あり方が対象となるのだ。
もちろんその中にコミュニケーションのあり方も含まれる。
その変化・変革で、人のあり方自体も変化・変革を求められることになるだろう。


孤独にも周囲には社会がある、孤独でも周囲には社会を感じる

人間関係が苦手で苦しむ人も、人間関係が希薄で悩む人もその悩みを少なくし、解消する方法はないか。

あなたは、「孤独」が好きですか。
どんな時に「孤独」を感じますか。

あなたは、プライバシーを大切にしたいと思いますか。
プライバシーを重視するあなたは、「孤独」であること「独りで居ること」が好きですか。
「孤独であること」「独りで居ること」に耐えられますか。

あなたは、人と繋がっていること、友人知人・家族との繋がりが必要な人ですか。
その繋がりがないとやっていけませんか、孤独で辛いですか。
必要とする繋がりは、どんな繋がりですか、どんな繋がり方が必要ですか。
その繋がりを、どのように作りますか、どのように持ちますか。

孤独を感じるということは、孤独を取り巻く社会からの疎外を感じるから。
逆説的で理屈のように思われるかもしれませんが、そういうことです。
つまり、社会を意識している。
意識できる社会が周囲にあるということです。

そして、感じる孤独は、自分と社会とに距離や違いを感じつつ、自分という「個」を意識しているからのコトです。
孤立しているのではなく、今は、孤独を選んでいる、孤独を感じつつ、孤独にどう対するのかも、少しは考えてみる余地がある。

そこで、感じる「社会」あるいは「世間」ときには「家族」との関係のあり方、コミュニケーションの取り方を考えてみる。
その考え方の軸になるのは、当面は、自分が好きなこと、自分がやりたいこと、その表現方法、伝え方など。
それらを表現し、外に向かって発信してみる。

伝わることがあれば、伝わらないこともある。
伝えたいと思えば、伝わるように工夫する、考える、努力する。
社会に少しばかり近づく。

伝われば、何か反応があるかもしれない。
関係性が見えてくる。
まだ孤独は解消されないかもしれないが、孤立はない。

少なくとも、自分が意識する社会が、すぐそこにある。
その社会は、あなたを拒絶することなく、あなたの行動を見つめている。

その静寂や距離感は、時に安らぎ・癒しや期待・希望になることもありうる。
そういう感覚、距離感で社会と付き合うこともありうるし、面白くもできる。
できれば、それらを楽しむ心のゆとりを持ちたい。

そう。
孤独も楽しい、孤独も必要、孤独も良いもんだ、と。

そして孤独を楽しむ生き方をしているあなたを、社会が、社会のだれかが見ているかもしれない。
興味関心を持っているかもしれない。
孤独であっても周囲に社会を感じているあなたを、社会が孤独でいるあなたを感じているかもしれないのだ。


孤独は当たり前。孤独でも孤立ではない仕事の仕方・働き方を考え、実践する


自分の領域に他人が入ってくることを好まず、それを拒む人は、孤独に耐えることが可能だろう。
得意かもしれない。
自ら孤独を求める性向があるから。

仕事における人間関係も、本音のところ、ない方がいいし、望まないコミュニケーション、ずれを生じるコミュニケーションはストレスを生み、疎外感の震源にもなる。
ならば、まさに、仕事だけはしっかりやり、期待されている、求められているレベル・目標・計画を果たして、ストレスにつながるコミュニケーションは必要最小限にとどめればよい。

心は孤独でも、しっかり仕事はやっており貢献はしているので「孤立」は回避でき、仕事の成果は認められるだろう。
それは、自分の一部が評価されることでもある。
嫌われたり、無視されたりすることがあるかもしれないが。
それは、覚悟の上のこととしておきたい。

企業社会から、孤立しないレベルで評価を受けつつ、孤独はいつも自分のそばにいる、あるいは自分と共にいる。
孤独との付き合い方、ストレスを感じない、溜めない生き方を知り、実践していることになる。

企業社会やその上司から最小限の評価を得た上で、別の社会との関係も作っておきたい。
この関係とは、直接人と会ってコミュニケーションの機会を持つことができる関係性をいうのではない。
自分がその社会や社会の何かに興味関心を持っているというレベルでの関係性があればいいのだ。
SNSや他のネットの媒体やソフトを使って、間接的なコミュニケーションがあれば、社会との関係を持っている、と言ってよいのだ。

できれば、その場面・機会に、自分で意見を述べたり、考えや創作を公開し、他からのコミュニケーションのアプローチに応えていけば、ストレス解消だけでなく、好ましいコミュニケーションの活用・展開ができていることになる。

孤独を守りつつ、孤立してはいない。
在宅勤務でも職場勤務でも、孤立せずに、孤独を好み、守りつつ、必要な、できれば心地よいコミュニケーション関係を作り、継続していこう。

その基本として、メールでのコミュニケーションスタイルは、しっかり身に付け、上司や同僚など必要な人との関係をしっかり作りあげておきたい。
メールだけのコミュニケーションに不安・不満を感じる場合は、そこに直接のコミュニケーションを持つ機会を、1日に1回、1週間に1回、あるいは1か月間に1回、と定期・定例化して確保し、実践しよう。
それに要する時間は、日頃のメールコミュニケーションによって決まってくるだろう。


在宅勤務は、独立自営業としての自分発見のチャンス

コロナ禍での在宅勤務の機会があったことは、自分の働き方を見直す機会になった。
しかし、最も価値があることと思われるのは、自宅を事務所として、自営独立して仕事をする自分をイメージできたこと、できることではないかと思う。

そんなことをこれっぽっちも思わなかったとすれば、在宅勤務でメンタル面でのケアが必要なグループに入りそうな感じをもつ。

在宅勤務をしながら、この仕事・このスキルで自分は、独立してやっていけるか。
そんなことを考え始めたら、コミュニケーションが少ないとか人と接する機会がなくて不安とか、感じている暇はなかったと思う。
みずから事業を起こし、自らの力でコミュニケーションの機会と方法を創出しなければ始まらないのだ。
その時、自分からだけの一方的なコミュニケーションでは受け入れられるはずはない。
相手があってこその仕事であり、自分が動かなければビジネスは近づいてこない。
顧客とも、社会とも関係を結ぶことはできない。
孤独や孤立など、別世界の不要な言葉になるのだ。

在宅勤務で、新しい自分を発見できただろうか。
新しいチャンスを得たと前向きに考える機会になっただろうか。
従来にない仕事の仕方、働き方、そして生き方を考える機会になっただろうか。
もしそうなら、休業での減給や、厳しければ雇止めや解雇という想定外な被害を受けるまで至らしめた憎いコロナではあるが、得難い体験をさせてくれたことになる。

これからどう働くか、どんな仕事をしていくか、そしてどう生きていくか。
そのために、自宅・家は、夫婦・家族は、単身であれば単身者として、どう機能させ、どう活用していくか。



新しい農業社会、新しい農業を職業とする社会を創造するのも方法

もう一つ、孤独感や疎外感から離れる、それらとは縁がない可能性がある仕事を考えてみよう。
それは、その仕事自体に、人間関係性が付いてくる、第一次産業、農業・林業・畜産業・水産業など第一次産業の仕事だ。

まず対象が、植物・動物という生き物。
就労過程において、生産物の成長過程や収穫過程をつぶさに見、人としての達成感と満足感をもたらしてくれる。

コロナ禍は、人も物も金も流れが止まった時にどうすればよいのか。
国という単位で、対応・対策を日常において講じておく必要性を知らしめた。
不要不急は控えるが、生きるための基盤は、何があっても、備えとしておかなければいけない。
そこから、国単位での社会システム改革課題として
食料・水・空気・エネルギーの自給自足国家創造へ
と提起した。

雇用社会の急加速での進展と共に、グローバルレベルでの産業分業化が、サプライチェーンの構築・拡大と同時進行で進められた。
ヒト・モノ・カネ、そして情報が遮断される現実を体験し、今後も想定外への備えを確実に行うべきことを学んだ(はずだ)。

その中で、農業分野における食糧自給自足化とそのための新しい農業の改革・開発を提起した。
その方法として、農地の国営化・公営化と農業従事者の雇用増大、農業経営分野の開発支援などを挙げた。

特に農業分野の雇用創出や起業化効果に対する期待は大きい。
新しい農業のあり方についての関心を強く持っているので、これからも当ブログでの対象カテゴリーとして取り上げていく予定である。


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