
2020年、深刻化・深層化する社会問題、単純化・短絡化する思想と行動
昨年12月下旬、3カ月に1度の定期血液検査に行った病院での束の間の待ち時間に、ずっと気にはなっていたが、新刊優先主義でずっと先送りにしていた、『希望格差社会 「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(山田昌弘氏著)を読み始めた。
本書は、2004年11月に刊行された書の文庫版。
いつもは、手元に新刊新書を1冊は置いておくが、数日間切らした状態だったので、已むなくかばんに入れて行った。
読み始めて最初に抱いた感覚。
それは、15年経過した今も、そこで指摘された社会問題は、なんら解決・改善されるとなく、むしろ深刻化していること。
その証として、例えば「パラサイト・シングル」「フリーター」「児童虐待」など当時の社会問題の一端を表して用いられたキーワードが、現在は、「少子高齢化」という当時と共通の用語にとどまらず、「非正規社員」「介護離職」「老老介護」「待機児童」「8050問題」「教育格差」等々、とどまることなく増加し、多様化・複層化している。
「令和」は、希望に溢れた社会をもたらすはずもない時代?
早いもので、日本中が高揚感を抱いたような「令和」元年も明けてもう新たな年、令和二年に。
思えば、日本に特有の元号システムにおける時代の更新は、何かしらの希望と願いを改めて抱くきっかけになるかのように、一応の祝賀意識をもたらした。
ただそれは、一つの非日常の出来事にしか過ぎず、基本的には、2019年から2020年への自然の摂理としての持続する流れでしかない。
かくて令和二年も進行していく。
過去となったあの出来事に、多くの人々が、一種の心の豊かさを認めることで納得させることもできよう。
しかし、一つの儀式のために莫大なコストをかけ、かつ、焼却・費消される現実を思うと、豊かさよりも虚しさの方に思いが至る。
拡大・深刻化する社会問題の改善・解決に充てるべきではないのか・・・。
新たな元号の時代入りを確認するには、もしそれを社会システムの一つとするならば、同時に、課題となっている社会問題をこの時代にどう克服し、心に希望を持つことができるようにしていくか、その道筋を同時に議論し、示し、共通の意識・目標とすべきではないか。
そうも思う。

問題提起用語「ダイバーシティ=多様性」は、希望可能性用語になりうるか?
21世紀に入って以降、そしてLGBTや移民問題などをグローバル社会の共通課題として包括して示している「ダイバーシティ」「多様性」。
それは、すべての社会が認めるべき課題として提起され、それが実現されることは、希望社会の実現に結びつくはずだが・・・。
当然、そこには、種々の格差問題や貧困・不平等問題の解消・解決も広義に含むはず。
しかし、現実的には、多様性を認めること自体が、統一や共同・協調から遠ざかる、それと矛盾するという問題と向き合わなければいけないことになる・・・。
どうも問題は、一層深刻・深層化、多層・多様化する方向に向かっているかのようです。

社会問題は、政治・行政課題化され、法制・法令による改善・解決の道筋化・方策化が必須
敢えて、令和の時代に意味・意義を見出すならば、法律・法令、「令」により合意形成すること。
それにより、融合、相互理解・協調・同意の「和」をもたらし、望ましい社会を実現する行動を、人、個人と、国や企業、地域などすべての社会が歩調を合わせて推し進めることにある。
そうとも思う。
しかし、
先述した書で取り上げられた状況が、15年経っても改善どころか、より深刻化していることを考えると、とてつもない困難な課題と再認識せざるを得ない。
別の視点で考えると、
実は、利害関係にあるそれぞれの当事者の主義・主張、不安・不満は、複層化や多様性の理解はそっちのけで、自分中心で単純化・短絡化した事情・心情に拠っているに過ぎない。
その調整は、今の社会システムにおいては、結局、良くも悪くも「民主主義政治」に委ねざるを得ない。
その政治自体が、日本では、次第に低級レベル化・機能麻痺化し、グローバル社会においても多様に混乱化している現代。
2019年からシームレスに繋がる2020年。
わが国では、2020年オリンピック・パラリンピックの祭りと喧騒で、それらの大きな課題への関心が低下し、ほぼ沈着化した「モラトリアム社会」が相変わらず生き延びていくに違いない。
そういう年に、果たして、社会問題をすべての国民・市民が少なからず考える機会となる「解散総選挙」があるのか。
劣化した政党政治と政治家の存在を許している原因の多くは、シルバー民主主義の利権を享受・行使している団塊の世代。
その一員として、「逃げ切り世代」という汚名をわずかでもそそぐことができるよう、1年のブランクを経て、静々と2020年の歩みを進めることにしよう。

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