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シミュレーションと過去データ分析で的確な財政健全化政策を提案できるか:日経<経済教室>「財政政策と国債増発の行方」から-3

20年、30年後の社会を生きるすべての世代へ

日経<経済教室>が、2022年2月6日から「財政政策と国債増発の行方」と題して3人の経済学者による小論を3回にわたって連載。
それぞれを当サイトで順に取り上げ、感じたところをメモしていくことにしたのは、先日シリーズを終了した、中野剛志氏著『世界インフレと戦争 恒久戦時経済への道』で展開された財政政策やインフレ論に対する関心が、こうした論述への関心を高めることになったため。
これまでの2回の投稿は以下。

新味に欠く、繰り返されるケインズ学派の退屈な一般論:日経<経済教室>「財政政策と国債増発の行方」から-1(2023/2/9)
防衛費財源問題の日本近現代史からの考察を活かすことができるか:日経<経済教室>「財政政策と国債増発の行方」から-2(2023/2/10)

島澤愉氏小論「破綻回避の期限は2036年」から考える

そして最終回の今回は、島澤諭関東学院大学教授による「破綻回避の期限は2036年」と題した小論。
以下、これまでと同様、その論述を整理しながら、メモしていきたい。

2036年までに財政健全化が果たされなければ、財政破綻が起きればどうなるというのか

2023年度予算案・一般会計総額114.4兆円、国債発行額35.6兆円

こういう書き出しは、1回目の小論と同じものである。
今回も基本的には、福田慎一氏のテーマ及び論調と同じだが、違いは、このままいけば財政破綻はいつ起きるかというシミュレーションが行われていること。
そうならないためにどうすればよいか、という主張提案は、同じところに行きつくのは当然だろう。
同じ理論派に属する学者陣による<経済教室>だから。

ミクロ経済学的基礎を持つ「一般均衡型世代重複シミュレーションモデル」による財政破綻シミュレーション

毎年30兆円超もの新規国債発行を伴う赤字財政運営をいつまで続けられか。
この課題に取り組むに当って用いたのが、標記のシミュレーションモデルという。
財政破綻シミュレーションではなく、財政の先行きの検証シミュレーションというべきなのかもしれない。
その手法は、
「日本のマクロ経済、財政・社会保障、少子高齢化の現状を再現したうえで、
現在の人口変動、マクロ経済環境、財政・社会保障環境が継続すれば、財政破綻は起き得るのか、それはいつなのかをシミュレーション
するものという。
マクロ経済アプローチと思うが、そこの「ミクロ経済学的基礎」を加えたというところが、素人には、一層チンプンカンプン、というのが率直なところ。
しかしそれよりも、「挙げられた環境条件が継続すれば」という前提・仮説そのものが適切かどうか、という疑問を持つのだが、素人の戯言と一蹴されてしまうのだろう。

結果は、「政府債務のGDP比率は2036年で発散する」と。
「発散する」とはすんなり頭に入ってくる表現ではないのだが、「政府債務残高の増加で民間資本ストックがクラウドアウト(押し出し)され、生産減少や政府利払い費の増加がスパイラル的に進行し、シミュレーション上での解法では解を見いだせない状況に陥ったことを意味する」と解説。
要は、シミュレーションによれば、2036年には財政破綻が、マクロ経済の持続の不可能化、すなわち経済破綻に転じる。
それを回避するには2036年迄に、健全財政への転換が必要との政策的含意が引き出せる、と。
この「政策的合意」が引き出せる、という表現も独特のもの。
この領域の課題に対する政策合意が、例えて、こうしたシミュレーション結果を用いてなされるとすれば、結局だれも責任をとれず、責任を取ることを求めることもできない、そう思うのだが・・・。
何よりも、こうしたシミュレーションを用いずとも、主流派経済学派においても、財務省にしても、一応政権内閣においても、健全財政への転換の必要性は、既定の合意事項ではないのか、と・・・。

財政健全化への悩ましい選択肢

という素人の思いに関係なく、筆者は、財政健全化への転換策に足を踏み入れ、こう問いかける。
「増税と歳出削減のどちらで実施すべきなのか。そもそも現在の財政運営スタンスは拡張的、緊縮的どちらなのか。」
この自問に対する答えは?
1)財政スタンスが緊縮的ならば、税収が歳出に対し根本的に不足しており、増税が必要
2)財政スタンスが拡張的ならば、税収に比べて歳出が過大であり、歳出削減が必要
3)結果、現在の財政運営スタンスが拡張的か緊縮的かにより、とるべき手段が180度違ってしまう。

ここでケインズが登場する。
ケインズが政府の役割に「経済安定化機能」を加えたのは、新古典派が主張するようには自動的に達成されない「完全雇用GDP」の実現を政府が目指すべきだと考えたから、と。
何を言いたかったかというと、
・財政スタンスが拡張的か緊縮的かの評価は、現実の財政収支が黒字か赤字かでは判断できず
・マクロ経済が完全雇用の状態にあるとき、即ち景気動向から独立しているときに、財政収支が黒字か赤字かで判断すべき
と。
これで素人にとって話が理解しやすくなっていればいいのだが、逆に分かりにくさが増している。
そこでその完全雇用か否かの評価検証のために「UV分析」手法を用いて、完全失業率(2.5%)を均衡失業率(2.8%)と需要不足失業率に分解して計算すると、その結果、マクロ的には完全雇用GDPは達成されている。
よって、完全雇用GDP実現状況下で、財政は歳出が歳入を上回っており、現状財政スタンスは拡張的。コロナパンデミック対応や、全世代型社会保障構築などを口実として肥大化する一方の歳出規模に合わせて歳入増を図るのではなく、歳出規模の削減こそが必要、と。
※()は22年11月実績値

またまた素人の勘ぐりで気を悪くさせてしまうかもしれないが、ここでなんとか分析とか、マクロ経済がどうとか持ち出すまでもなく、増税などによる歳入増よりも、歳出削減を行うべきという結論は、経済学によらずとも、当然ケインズさんに頼るまでもなく、家計を考えれば当然のことではないかと・・・。
ただ、家計の方は簡単に賃金所得を増やすことは、個人レベルでは簡単でないのは自明。
政府財政においても、対象が企業であろうが個人であろうが、増税で賄おうとすれば、一層経済成長から遠ざかる、一層の消費低迷を招くことはより明らか。
なのではないでしょうか・・・。
もう一つ素人の単純な感想だが、完全雇用状態とは言っても、長く賃金が抑制され、かつ非正規雇用比率が高まったままの雇用事情を考えれば、完全雇用の定義自体に問題があるのでは、と・・・。

最適政府規模は、経済成長率を最大にする政府規模

話を戻して、次の筆者提起の問いは、「現在の日本財政はどの程度大きすぎるのか」。
そのためには、「政府の最適規模を知る必要がある」と答える。
そして、「ここでは経済成長率を最大にする政府規模を最適政府規模とする」と。
しかし、ここでもまた、先の質問時の対応と同じように、正負相反する性質が、政府規模と経済成長との間にあると次のように説明する。
1)経済が発展途上の段階では、生産活動を支える社会資本整備が進むことで経済も拡大するため、政府規模の拡大と経済成長の促進という好循環が生まれる。
2)経済が十分に発展し政府規模も大きくなると、政府規模のさらなる拡大は市場の効率性を低下させ民間経済の自由な活動を阻害することで、経済成長を抑制する。

言い換えれば、「大きな政府」はダメ!ということ・・・。
冒頭紹介の2つの小論も、同様の意見であったことを再確認。
それよりも「経済成長率を最大にする政府規模」を設定・実現することそのものが可能なのか?
素人考えをそれにまた加えると、経済が十分に発展した状態とはどのレベルを言うのか、そして、資本主義・自由主義体制において、求める経済成長には、上限がなく、かつ際限ない持続性を求めるのではないか、と。
こんなことばかり言っていると、話が前に進まない。


最適政府規模実質GDP比25.2%136.2兆円

そして、政府規模と経済成長との間の関係を以下のように分析し、その結果を示している。
・1980~2021年の国の一般会計と特別会計の財源繰り入れなどを控除した歳出純計の実質額と、実質経済成長率を用いて推計
・その結果、政府規模と経済成長との間には逆U字型の関係が検出
・経済成長率を最大にするという意味での最適政府規模は実質GDP比で25.2%、金額換算では136.2兆円、最適政府規模のときに実現される経済成長率は2.7%

要は、前回・前々回の2人の学者の小論でも同様に指摘されていた、財政赤字をもたらす過剰な政府支出が健全な経済成長を拒む負の要因となるということだ。
しかし、素人からみれば、政府支出が経済成長に直結するように適切に行われていればそうはならなかったのではないか、と思うのだが・・・。

2000年代以降、現実の政府規模は最適規模から大きく外れ、その結果、経済成長率も低迷している。

そういう評価を導き出して財政政策を批判するのだが、2000年以降の経済成長率の低迷の要因は、非正規化雇用を加速させ賃金所得の抑制を強化させた労働政策や、少子高齢化がもたらした社会保障制度上の社会保険料負担の増額と可処分所得の減少、政府関連支出の増加など、複合的なものであったと言えるのではないか。
すなわち、経済成長やGDPを停滞させた要因は、財政支出だけではなく、政治行政政策にも強く求められるべきだったのだ。
そこでは、赤字国債の発行を推し進める要因ともなった異次元の金融緩和政策ではなく、雇用の安定化と賃金所得増大のための労働政策の転換こそ求められたと考えるのだが・・・。

ということで、
2022年の当初予算規模(実質)は267兆円(GDP比48.6%)で、上記の最適政府規模と比較すると、その政府規模はGDP比23.4ポイント、131兆円過大であり、スリム化が必要、となる。

なにかしらの調整方法を用いたにせよ、経済的社会的環境の変化を続けてきた40年間の過去データに基づき、望ましい最適政府規模を算出する。
それ自体は、種々のデータ算出において求める平均値通りの現実モデルが存在しないのと同様のことで、現実性を欠くものではないかというのが、素人の私の基本的な疑問である。


語り尽くされた過去の財政政策の誤りの要因

そして、変わらぬ批判が繰り返される。
日本政府が財政規律を無視した放漫財政を続け、歳出規模を肥大化させてこられた要因は
1)日銀による事実上のマネタイゼーション(財政赤字の穴埋め)
2)同じく、国債金利が上昇しないよう実施してきた長短金利操作(YCCイールドカーブ・コントロール)
それにより、
1)どんなに大量の国債を発行しようとも、日銀が人為的に金利を抑えつけているため金利上昇圧力が働かない。
2)財政規律も働かないから、赤字国債発行による政府規模の肥大化が進んだ。

市場による規律取り戻しで財政正常化を、とは?

まとめが近づいてきた。
こう提案する。
・政府と日銀が一体となり財政を市場から隔離し続け、政治からも国民からも財政規律を求める声が上がらないのならば、市場による規律を取り戻し、財政を正常化するほかない

またいちゃもんだ。
「国民からも財政規律を求める声が上がらないのならば」
どうしてこういうことを言うのか分からない。
この時の「国民」とは、いかなる人々か。
「市場による規律を取り戻し」というのも、「市場」って一体何なのかも「よく分かんない」。
「市場」という一言で通じあえる個人・グループ。
それと同じ土俵に「国民」という用語・表現で無理やり上げられ、疑似合意形成仲間化されている、姿も意志・意識も持ち得ない(私たち)「国民」。
その違和感。

そして相反理論の連続もまたまた。
・それにはYCCの放棄は不可避で、日銀と市場の間で決められるので、政府や政治による財政健全化よりもハードルが低い。
・ただしYCCを放棄すると、国債金利の急騰が懸念され、巨額の債務の下で金利が急騰すれば、利払い費が雪だるま式に増加
・加えて、日銀や市中銀行のバランスシートが毀損し、企業の債務や家計の住宅ローンの負担も増える

で結局どうなる、どうすると究極の一手を期待したが、
・こうした事態を避けるため、日銀が保有する国債を永久国債化するなどして、日銀が永遠に保有し続ければよいとの主張もある。
・しかし仮に一時的に債務が帳消しになったように見えても、歳出・歳入構造に変化がなければ、いずれまた政府債務が積み上がるのは確実であり、根本的な解決策にはなり得ない。

経済学、財政学とは何か?財政政策、金融政策とは何か?

と堂々巡りでイライラさせられた結果
結局、財政健全化に奇策はなく、歳出削減によるスリム化で最適な政府規模を実現し、2%台の安定した経済成長軌道に日本経済を乗せる道を探るしかない。

なあんだ、「財政健全化に奇策がない」のは当然で、ならば正攻法の政策を提示してくれればと切に願うのだが、「最適な政府規模を実現し、経済成長軌道に日本経済を乗せる道」は探るしかない、のだと。
じゃ本論は何だったの?
経済学・財政学って何なの?
シミュレーションは何のため?
駆使した分析は何のため?
兎にも角にも、2036年までに財政健全化が実現しなければどうなるのか、財政破綻が起きればどうなるのかは、触れずじまいなのも、表現は悪いが、片手落ちというものだろう。

日銀新総裁に、日本を代表する金融政策学者、国際的経済学者植田和男氏

まあこんなもん、と思いつつ、3回素人のいちゃもんを続けてきたが、
昨日日銀の新しい総裁に、当初報じられていた雨宮副総裁の持ち上がりではなく、植田和男氏が就くことが報じられた。
同氏は国際的な経済学者であり、同学者としては初めての起用ということだ。
雨宮氏は就任を固辞したという。(そうあるべきと思う。)
植田氏は71歳、二人の副総裁は62歳と60歳。
できることならば、副総裁の年齢・年代の人を任用してほしいと思うのだが。
早速同氏は、「現状の日銀の金融政策は適当で、当面金融緩和を続ける必要がある」と。

主流派経済学者にこそ求められるイノベーション

机上の空論を、過去のデータを収集・蓄積し、公式化し、それらをあたかも理論であるかのように組み立てする。
決してそれらが、市場や民間企業活動、そして市民の日常活動の実際と直結するものでなくとも。
金融政策、財政政策、そして広く経済政策を論じ、研究するのは、そうした特定・特殊なムラ社会でのみ通用し、理解し合える用語と手法を駆使し、評論・執筆し、教鞭をとる営みに集約され、それがメシの種になっている。
そこでは、異端・異質性は排除され、一層ムラ社会は、現実社会が変貌する多様性とは異なる方向に単一化されているのが、大きな特徴でもある。

冒頭示した中野剛志は、こうしたケインズ学派を批判して、ポスト・ケインズ派に属する議論・主張を同著書のなかで展開している。
異端とまではいかなくても、反主流に属する学派の理論、貨幣循環理論・現代貨幣理論を支持し、展開している。
主流派は、経済成長に不可欠なのは、付加価値を高めること、労働生産性を高めることとするのを常としているが、自らのこうしたムラ社会での営みが、その求めるところを自ら体現しているとは到底認め難い。
そのために必要とするイノベーションこそ、彼らの定型的・教条的、非生産性ロジックへの固執からの脱却に求められるものと考えることが、私の常となっている。

以上で、同様の経済学的・金融財政政策的流儀・流派に属する日経が掲載した<経済教室>3回の「財政政策と国債増発の行方」シリーズを終えることにします。
次回からは、またまたボヤキとイチャモンの連続になるかもしれませんが、同じ日経<経済教室>で昨年12月に掲載された「あるべき社会保障改革」3回シリーズを題材とする予定です。

20年、30年後の社会を生きるすべての世代へ

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